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  ショートストーリー  【自転車は風に乗って】短編小説 

 

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第二十九話 「ヨシロウさんが60歳で定年退職」   

恵さんの周りにはこの10月、旅立ちを迎えた人たちがいます。そのひとりがヨシロウさんです。60歳、定年で会社を去りました。本人が希望すれば65歳まで残ることができるのですが、「もう、宮仕えはこりごり」といってあっけなく辞めてしまいました。景気がやや上向きになったとはいえ依然、就職難。とくに中高年にとっては厳しい時代です。体力的にもまだ現役で続けられるのに、ちょっともったいないような気もしますが、ヨシロウさんにはそれなりの考えがあったのでしょう。

群れることをよしとしなかったがために、時に偏屈、へそ曲がりとみられ社内では浮いていましたが、性格が悪いわけではありません。処世術がへたで立ち回りがうまくないために誤解されることが多かっただけで、自転車を通して言葉を交わすことの多かった恵さんは、ヨシロウさんの人柄を理解しているつもりです。

定年の挨拶にやってきたとき、恵さんは「近々にどこかで食事でもどうですか?」と声を掛けたところ、ヨシロウさんは意外にあっさりと「いいよ、俺はいつでも。時間はあるから」といっていたので急きょ、送別会を催すことにしました。といっても、ヨシロウさんと二人だけです。こういうことは思い立ったが吉日ではないけれど、すぐに行動に移さないと、なかなか実現しません。「近いうちに」といったのが、気がついてみたら何年も経っていたということは珍しくありませんから。

送別会は居酒屋の個室です。ヨシロウさんもそのほうが気が楽でしょうし、恵さんも負担にならないので、そこに決めました。板張りの8畳ほどの広さのところに卓袱台を挟んでふたりが向かい合っています。「長いこと、お疲れさまでした」。恵さんが神妙な顔をしてこういうと、ヨシロウさんは「いや、いや」といって照れ笑いを浮かべながら、「しかし、こうしてメグちゃんに送別会をして貰うとは思っていなかったよ」。

ふたりの距離を近づけたのは自転車です。自転車が存在しなかったら、恵さんはヨシロウさんと言葉を交わすこともなかったでしょう。「自転車が縁でしたね」「そうだね。駐車場の空いているところにママチャリを置いていなかったら、メグちゃんと話す機会もなかっただろうな」「自転車に感謝しなくちゃ」「まあ、そういうことになるな」。恵さんはあるはずもないところにヨシロウさんのママチャリが置いてあった光景を思い浮かべていました。ヨシロウさんも社内で顔はみたことがあるけれど、名前も所属先も知らない恵さんから突然、声を掛けられたときのことを脳裏に描いていました。「あのときはびっくりしたよ。いきなり自転車に乗っているんですかっていわれて」「昼休みにヨシロウさんが自転車でどこかに出掛ける姿を何度か目撃していたんです。うちの会社、自転車使用は原則、禁止でしょう。なのに、どうしてなんだと」「まあ、そりゃそうだ。警備はともかく、社内の連中は自転車に無関心だからな」。しばらく、自転車の話題で盛り上がっていました。

(次週に続く)

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第三十話 「定年延長を希望しなかったワケ」   

「それはそうと、どうして定年延長を希望しなかったのですか?」。酔いの勢いもあって、恵さんは核心に触れました。これだけはどうしても聞いて置きたかったのです。ヨシロウさんは「ふむ」といって皮肉な笑いを口元に浮かべたあと「どうしてっていわれてもな」と、困ったような顔をしました。「いや、いいんです」。他人の気持ちを忖度しない、あまりにも不躾な聞き方をした恵さんは、自分が恥ずかしくなりました。「人事部のほうからもそういわれたよ。まだ、5年、先が残っていますよって。なにか計画があるんですかって」。ヨシロウさんは恵さんの困惑を楽しんでいるかのようにいいました。「ま、そうだろうな。会社に居残ることができるのに60歳で辞める奴はそういない。第二の人生じゃないけれど、やりたいことがあって退職するんじゃないかと考えるのが、まあ、ふつうだ。声を掛けてくれるのはありがたいけれど、断った。といって、これから先の青写真があるわけじゃないんだ。ただ、なんとなくもういいかなと」。

ヨシロウさんは夫人とふたり暮らし。子供はすでに独立しています。夫人は体調を崩して入退院を繰り返しています。会社に自転車を置いているのは、昼休みに時々、夫人の入院先の病院に出掛けるためであることは聞いていました。「これから奥さんの看病に専念するというわけですね」「まあ、それもあるけど、それがすべてじゃないよ」。ヨシロウさんがまっすぐな目を恵さんに向けてきます。「学校を出てから三十数年間、勤めてきたよ。恰好よくいえば脇目もふらずに。だけど、65歳になるまで勤めてもいまの延長だろう。やっている仕事の本質はそう変わらないのに、身分が嘱託ということになって給与を半減されたんじゃ割に合わないからね」。60歳という年齢は気力、体力、集中力もまだ残っている。「体の自由がきくうちになにかをやろうというわけですね」。恵さんが補足すると、ヨシロウさんは笑いながら手を振って否定した。「いや、そうじゃなくて、さっきもいったように、これといった目的があるわけじゃないよ。言いたいことは、なんていうかな、たとえば、本を読むにしても、なにかに興味を覚え、思考を磨くにしても若いうちのほうがいいだろう」。いまの60歳はスタンスも軽い。「60歳から65歳までの5年間というのは今後、生きていくうえでけっこう大切な時期だと思うわけよ。人生の通過点という意味でも見逃すことができないと、漠然と思っているわけよ。まあ、そんなところかな」。

ヨシロウさんの性格からして、慎重に見極めたうえでの60歳定年の選択だったのだろう。退職後の生活を晴耕雨読に見立てる人もいるが、人生85歳と考えたら、60歳なんてまだ駆け出し。先は長いのだ。大切なことは志を高くもって楽しく生活していくこと。ヨシロウさんはなにをやるのだろう。会社という鎧を脱ぎ捨ててさっぱりした表情で、酔いも加わりやや饒舌になっている先輩の話に耳を傾けながら、恵さんはそんなことを思っていました。

(次週に続く)

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第三十一話 「玄関脇に駐輪してあるクロスバイクとマウンテンバイク」   

「すっかり、ごちそうになってしまったね」。ターミナル駅の広場のところでヨシロウさんがほってた顔をほころばせながらこういってみました。「いや、こちらこそ楽しいひと時を過ごすことができました。ありがとうございます」。ヨシロウさんは私鉄、恵さんはJRを利用するのでここでお別れです。ヨシロウさんが背中を向けてすたすたと歩き出しました。その足がぴたりと止まったかと思ったら、振り向いて恵さんに近寄ってきます。なにか忘れ物でもしたのかな。そうではありませんでした。「今度、うちに遊びにこないか」。ヨシロウさんが誘いを掛けてきたのです。「えっ、自宅に」。想定外の出来事に恵さんは戸惑いながら「携帯に連絡します」とだけいいました。ヨシロウさんの自宅に行ったことはありません。恵さんはその場で態度を明らかにしませんでしたが、気持ちは「行く」ということに傾いていました。

私鉄沿線にあるヨシロウさんの自宅は、駅から歩いておよそ15分の距離。商店街を折れ、なだらかな坂道を少しのぼったところにありました。閑静な住宅地に佇む木造二階建て。瀟洒な住宅です。玄関脇にクロスバイクとマウンテンバイクが置いてありました。どちらも乗らないで放置している自転車ではありません。年季が入っていて現役バリバリで走行している気配がうかがえます。クロスバイクのサドルは皮がはげて色が変わっていますが、きれいに磨き上げられていました。フレームにしてもしかり。自転車に対する愛情を垣間見ることができます。

意外だったのは犬を飼っていたことです。ペットが好きなタイプにはみえないので、ちょっと驚きました。犬はおとなしいというか、小屋の中から出てこようとはしません。ワンと吠えるわけでもなく、うずくまったまま思慮深い目でじっと訪問者を観察しています。家主との関係を洞察しているのかも知れません。賢い。そういう感じがします。恵さんところの猫、小太郎とはかなり違います。犬と猫の性格を比較するのは無理がありますが、小太郎はやんちゃで、あまえん坊。猫は一般的に人に媚びないといわれますが、小太郎はどうもそうでないようで。押しも強く、手でお腹をなでなでしておくれ、櫛でとかして毛づやをだしてくれなどあれやこれやと要求も多い。要するにわがままなんです。自転車のタイヤで爪を研いだり、サドルを齧ってみたり、やることがめちゃくちゃ。誰に似たんでしょうか。

玄関のチャイムを押すと待ちかねていたようにヨシロウさんがぬっと顔を出しました。作務衣を着ていたので軽い戸惑いを覚えていると、白いものが混じった無精髭がぴくぴくと動きました。「すぐにここが分かった」「ちょっと迷いました」。恵さんはヨシロウさんの家を通り越し、番地を確認しながら戻ってきて、自宅に辿り着きました。「ぼろい、小さな家なので、最初の人はみんな迷うんだよ」「立派なおうちじゃないですか」。謙遜ではありません。漆喰の壁に銅板の屋根。狭いながらも庭も手入れが行き届いています。「さあ、はいった、はいった」。ふと、視線を感じました。小屋でうずくまっていた犬がいつのまにか姿をみせているのです。尻尾を振って、家主に愛嬌を振りまくでもなく、黒く深い目をこちらに向けています。「犬を飼っていたんですか」というと、「メグちゃんのところは猫だったよね」「ええ、ヘンな猫ですけれど」。いまごろ、恵さんがいないのでふてくされているのではないだろうか。「散歩のときのいい相棒だよ」。柴犬で名前は「太助」という。「けっこう頭がよくて。やみくもにきゃんきゃん吠えないところもいいね」。聞け、小太郎。そういうわけだ。

(次週に続く)

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第三十二話 「玄人はだしの手料理に舌鼓」   

奥さんは体調を崩して入退院を繰り返している、とヨシロウさんから聞いています。奥さんが自宅にいるのか、いないのか。恵さんはそれを聞き忘れていたことを悔やみました。てっきり、いないと決め込んでいたので、途中、デパートの地下に立ち寄って惣菜を買い込んできたのです。奥がリビングになっているらしく、煮物の匂いがほんのりと漂ってきます。「奥さん、いるんですか」「いや、いないよ。どうして」。ヨシロウさんが怪訝そうな顔をするので恵さんは「料理をしているみたいなので」といいました。「してるよ。俺が作っているんだ」。えっ、ヨシロウさんて料理をやるの。そんなふうには見えないけれど。「けっこう、好きなんだ。料理は」。知らなかった。そういうことは先にいって貰いたい。

恵さんは成り行きで酒になると読んで、その肴にイカの塩辛、やきとり、じゃこ天、ポテトサラダ、焼きビーフンを買い込んできました。ヨシロウさんが「手ぶらでこい」といったことが分かります。「いま、筑前煮を炊いているの。さあ、あがって、あがって。遠慮はいらないから」。リビングをみて驚きました。テーブルのうえにヨシロウさんの手造り料理が並べられていたのです。シメサバ、さんまの味噌たたき、マグロの赤身の刺身、らっきょ、しょうがと青じそがたっぷりのっているざる豆腐、漬物としてなす・きゅうり・大根の盛り合わせ。そこに、ガステーブルの上で鍋から湯気が立ち上っている筑前煮が加わります。「このシメサバも手造りだよ。活きのいい鯖を一本買ってきて、カボスで〆たものだ」。スーパーなどで市販されているものは酢で真っ白になっているけど、目の前にあるものは肉厚の身にうっすらと赤いところが残っていて絶妙。らっきょも手造りだそうです。「なんだか小料理屋にでも迷い込んだみたい」「はははは。第二の人生は料理屋をやるか」。まんざらでもなさそうです。恵さんは買い込んできた惣菜を出すのを忘れてしまい、それでも冷蔵庫に保管していたほうがいいものばかりだったので、「これ、買ってきたものだけれど」とおずおずと差し出すと、ヨシロウさんは中身を確認して「だから、手ぶらでこいといっただろうに」と笑いながらいいます。「いいですよ。帰りに持って帰りますから」というと、ヨシロウさんは「もちろん、いただいて置くよ。貰ったものを返すなんで失礼だからね」と素早く冷蔵庫に収納しました。

料理はどれも玄人はだし。筑前煮も得意料理のひとつというだけあって、薄味でだしの染み込み加減が見事でした。料理を盛り立てる器にしても、大皿や小皿がハーモニーを奏で、色合いが美しい。「ホント、人は見掛けによりませんよね」。日本酒の酔いがほんのりと回ってきて、口も軽やかになっていました。「料理は学生のときから作っていたのでキャリアは長いよ」。知らないことばかりです。「ああ、そうそう」とヨシロウさんは思い出したようにいいます。「もうすぐ新蕎麦がでるよね。女房は俺の打つ蕎麦が好きでね。今度、退院するころには食べさてあげられると思う」。ぜひ、そのときは一声掛けてほしいと、恵さんはおねだりをしました。ヨシロウさんは引出しをたくさんもっています。退職後も、マイペースでやっていくのでしょう。今度、逢うときはどんな顔をみせてくれるのか。

(次週に続く)

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