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  ショートストーリー  【自転車は風に乗って】短編小説 

 

(一) (二) (三) (四) 

「この小話は自転車をめぐる家族のお話です。自転車に乗るその人と共感しながら人間模様を描いていきます」 第2章  

著者 「秋本宏」

プロフィール「新聞社の出版部門で週刊誌記者を経て、現在、フリーライター」

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(一) 「高校入学祝いにおばあちゃんから自転車をプレゼント」    

祖母から入学祝いはなにがいいと訊ねられたとき、本当はおカネといいたかったけれど、翔太はなぜか、自転車と口にしてしまった。現金なら好きなゲームも買えるし、友達とカラオケにも行ける。靴も服もほしい。それなのに、どうしてチャリなんていってしまったのだろう。おそらく、祖母を少し恐れていたのかも知れない。

彼女はずっと中学校で国語を教えていて教師を退職したあとも地域の世話役として奔走し、いまは俳句を嗜んでいるという学ぶことが大好きな好奇心旺盛のスーパーおばあちゃんなのだ。できるならおカネがありがたいんだけどなんていったら、根掘り葉掘りと使い道を訊いてくるだろう。読みたい本があるので買いたいと話しても信じてもらえない。突っ込まれて言葉に窮してしまうのは目に見えている。でまかせをいってもすぐにばれてしまう。

そもそも翔太は漫画ならいざしらず、小説のたぐいはとんと読まない。そのことは祖母も知っている。ゲームを楽しみ、カラオケなんかにも出掛けていってぱあっと遊びたいなどというものなら最悪。でも、自転車がほしいというのもまんざらウソではない。高校には自転車で通うのもいいかなと翔太は漠然と思い描いていたのである。

自宅から高校までは距離にしておよそ八キロ。電車なら二駅、路線バスもあるので足は便利だ。たいていの生徒はどちらかの交通手段を使って通学しているみたいだが、自転車通学者もいて、正門をはいった右手に駐輪場があることは合格発表をみにいったときに確認していた。

祖母はどことなく嬉しそうだった。「へえっ、翔ちゃん、自転車で通学するの?」

「と思っている」

「いいんじゃない。大賛成よ」

おそらく祖母は孫とは別のことを考えているのだろう。自転車ならば寄り道もしないでまっすぐ帰宅するはずと。孫は違った。小遣いとは別に親からせしめた通学定期代の費用を遊興費に充てるのもいいなと思いを巡らせていた。

「クラブ活動はなにか決めているの」

祖母が訊いてきた。翔太の通う高校は近隣の多くの学校と同じように「文武両道」をモットーしていて、よほどの事情がない限り、いずれかのクラブに所属しないといけないことになっている。

「なにか体育会系のクラブにでもはいったらいいんじゃないの」

祖母は翔太が想定したこともないことを平然といってきた。「まさか剣道とか、柔道とか」

「なんでもいいのよ、体を動かして集中できるものなら。テニスだっていいし、水泳も楽しいよ。野球も面白い」

中学校のときからなにもしないでただ、ぼうっとして過ごしてきた翔太にとってはハードルが高い。

「文化系のクラブがいいな」>

といったものの、翔太の中には具体的なものはなにもなかった。「そうね。翔ちゃんが夢中になれるものなら絵でも音楽でもいいと思うわよ」

これまた難しい。「入学してから決めるよ」

「なにかやりたいことでもあるの」

「やりたいことって・・」

翔太にはなにもなかった。

「高校は中学とは違うのだから。勉強もおろそかにしないで、しっかりやってちょうだいよ」

いまいち反応の鈍い孫に祖母が肩で息をついた。 (次週に続く)

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(二) 「おばあちゃんは出来のよくない孫のほうが可愛い」    

翔太の高校は進学指導重点校にいけなかった生徒の面倒みてくれる「受け皿」的存在で、見方によってはありがたい公立校である。男女共学で生徒数は一学年250人余り。男性が女性より若干多い。卒業後の進路はおよそ半数が大学に進学し、あとはほとんどが専門学校に進む。登校拒否などで中退していく生徒もなかにはいるが、進学校でないことから教職員もどことなくのんびりしていて、放課後の補習授業などもない。生徒は伸び伸びと過ごしている反面、目的意識がなく向上心に欠けるところがある。翔太にとっては身の丈にあった高校だろう。当の本人も大学進学率の高い高校にいけなかったことに対する挫折感などはまったく持ち合わせていない。

翔太は両親と妹が一人の四人家族。自転車を高校の入学祝いにプレゼントしてくれるという祖母は、父の母親である。翔太の家から少し離れたところに住んでいて、数年前に祖父が亡くなった。祖母は進学指導重点校と呼ばれている高校のOGで、国立大の教育学部に進学して教員になった。翔太の父親もこの高校のOBである。妹は中高一貫の恐ろしく偏差値の高い女子校に通っている。今春、中学二年。とかく翔太はこの妹と比較されることが多く、「出来のいい」妹に対し、「出来があまりよくない」兄という構図が暗黙のうちに出来あがっていた。

教育熱心なのは父親より、むしろ母親のほうだ。父は「なにも無理して学費の高い私立の女子校にいかせなくても」といっていたが、頑張り屋の母に押し切られたらしい。祖母も母の側についたので、これは、もう、勝負が目に見えていた。なにごとにも敏感な妹はそんな空気をいち早く感じ取っていたので、中高一貫の女子校を目指した。妹は期待の星なのだ。

翔太が四月から通うことになった高校に対し、母は「ご近所にはあまりいえないわね」と冗談半分にいっているが、ホンネだろう。父は含み笑いを浮かべているだけだ。妹はなにもいわない。祖母は翔太に希望を繋いでいるところがあり、「大器晩成」と口ずさむ。教育者として孫のいいところを伸ばしてあげようとする熱意が伝わってくる。

でも、翔太にとってはそれが重荷だった。ほっといて。正直いえばそんなところだったが、そういうことは口にしない。先のことを考えないのが翔太の持ち味である。それと、なにごとにも飽きっぽいこと。授業もそうなので中学の三年間の成績はあまりよくなかった。だけど、祖母は同じ孫でも優秀な妹よりも出来の悪い翔太のほうが可愛いらしい。

「教育は偏差値だけじゃないのよ。生きていくうえでの優しさや、他人に対しての心遣いや気配りがもっとも大切なことなの。翔ちゃんにはそれがある。夢中になれるものを見つけたらそれを伸ばしていけると思う。社会人になって大きくなるのはさやかちゃんよりも翔ちゃんのほうだ」

翔太はそういうことを耳にはさむたびに尻のあたりがむず痒くなってくる。さやかというのは翔太の妹だ。

「それは買いかぶりというものでしょう」

「なにいってんのよ」

祖母がきっとした目を向けてきた。

「いまから弱音をはいていたんじゃあしょうがないじゃないの」

「えへへっ・・・」

翔太はへらへらしているだけだ。

祖母は君枝という。ちなみに翔太の父親の名前は将司、母親は奈美である。

(次週に続く)

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(三) 「新しい自転車がやってくるので、乗らなくなったのを処分する?」   

玄関先には自転車が三台置いてある。常時、使っているのはおかあさんの奈美のママチャリだけで、あとはシートをかぶせたままの状態だ。家と同じで自転車も人の息が掛かっていないと朽ちてくる。二台の自転車はおとうさんの将司と翔太のもので、いざ乗ろうとするとタイヤの空気が抜けていたりする。スポークの錆びも目につく。妹のさやかはもともと乗らない。変速ギアのついているのが翔太の自転車だ。

「この自転車、乗らないなら処分しないと。もう一台増えたら置き場所に困るでしょう」奈美が眉間に皺を寄せて埃のかぶったシートをめくった。おばちゃんの君枝が翔太の高校入学祝いに自転車をプレゼントしてくれるので、放置している自転車をどうにかしないと、玄関先はパンクしてしまうのだ。それでなくて狭いスペースに詰め込んでいるのに、もう一台増えたら身動きがとれないというのだ。奈美は新しい自転車がやってくることに警戒感を隠さない。

「翔ちゃん、ホントに自転車で通学するの。最初だけでまたすぐに飽きちゃうんだったら、おばあちゃんにも悪いので、いまから断ってもいいのよ。そのほうが結果的には親切なんだから」

よく、ご存じで。だけど、そういうことはいわない

「乗るよ。高校でも自転車通学はちゃんと認められているんだから」翔太は鼻を膨らませていった。

「ホントかな」

奈美は息子の性格を熟知している。もちろん、夫である将司のことも。「新しもの好きの三日坊主。そのへんはおとうさんとよく似てるんだから」

こういうことを何度いわれただろう。そのたびに翔太は黙り込む。「一緒にすんなよ」とはいえなかった。

「おばあちゃんが買ってくれる新しい自転車で通学するんなら、この置きっぱなしにしている自転車をどうにかしなさい。ついでにおとうさんの自転車もなんとかしてもらいたいわね。リサイクルにだすとか、考えてちょうだい」

奈美はいうだけいうと、家の中に引っ込んでしまった。

シートがめくられて車体が露わになった二台の自転車はスポークやハンドルのところが錆びていて春先のさわやかな日差しにはどこか不似合だった。ふだん乗っていて手入れを怠らなければ見栄えもするのだろうが、いかんせん、置きっぱなしである。その姿が痛々しい。

新年度のこの季節、通りや路地で廃品回収の軽トラが頻繁に出没する。なかにはハンドルがとれていたり、車輪のなくなった自転車が荷台に押し込まれていることも。だけど、翔太や将司の乗っているものは、手入れさえすればなんの問題もない。

「処分しろ」といわれるとかえって愛着が沸く。さて、どうしたらいいものか。翔太は知恵が浮かばないまま、自転車と向き合っていると、背後から妹のさやかに声を掛けられた。利発な妹は兄の逡巡しているさまを瞬時に見破る。

「おばあちゃんから自転車が届くんでしょう。なら、その自転車を処分しなよ。粗大ごみに出すとか方法はいろいろあるでしょう」

母親と同じことをいってきた。だけど、翔太の思考はまとまらない。勢い、河川敷にでも放置しようかと犯罪まがいのことが念頭をよぎり、それを慌てて打消している自分が情けなく、なによりも恥ずかしかった。

「おとうさんの自転車もなんとかしないといけないから、帰ってきたら聞いてみるよ。まだ乗るのでそのままにしておけというかも知れないし」

(次週に続く)

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(四) 「父親の提案はNPO経由で自転車の再利用」    

その夜、父親の将司は珍しく上機嫌だった。なにかいいことでもあったのか。いつも晩酌で飲んでいる発砲酒と違ってビールである。冷蔵庫にはないので途中、コンビニかどこかで買い込んできたのだろう。

「自転車のことだけれど・・・」

食事をしているとき話の接ぎ穂をみつけて翔太が切り出した。場の空気が止まって、家族の視線が翔太に向けられる。

「そうそう」

母親の奈美が割り込んできた。

「この際、おとうさんの自転車も片づけてほしいのよ。玄関先に乗らなくなった自転車ばかり並んでいるのもおかしいでしょう。場所はとるし、出入りにもなにかとじゃまなのよ。私のは毎日乗っているからいいけれど」

将司は箸を置いて奈美に目を向けた。

「ああ、自転車のことだろう。俺も気になっていたので、リサイクルショップで聞いてみたんだ」

「ええ、そうなの」

奈美の表情が輝いた。

「そしたら、引き取るって。そこの店は海外の交通の便の悪い地域などに自転車を提供するNPOと提携して乗らなくなった自転車を再利用しているんだって」

将司がやや得意げに話すと、奈美が微笑んだ。

「なんにもしないあなたにしてはなかなかやるじゃないの。いつも後手にまわっているのに先手を打つなんて珍しいこと。雪でも降るんじゃないかしら」

褒めてもらっているのか、けなされているのか。将司には父親の面子というものがある。

「ふん」

顔がどことなく強張っている。

将司は大学卒業後、事務機器メーカー、経営コンサルタント会社などを経て、いまは嘱託社員として工務店に勤めている。新卒で入社したコーピー機やFAXなどのオフィス機器を生産している会社をリストラされたあとは職を転々とした。不況の風が吹いているなかので再就職はなかなか思うようになかった。経験と実績から職種を選んでは慎重に履歴書と職務経歴書を郵送していたが、面接までこぎつけられるのは稀で、送り返されてくる書類を手に溜息を洩らした。年齢などから職を選ぶ選択肢がないことを身を以て知った将司は作戦を変更して手当たり次第にアプローチを試みたけれど、気持ちだけが空転するだけでうまくゆかない。コンサルタント会社は契約社員としての採用だった。提示された給与はよかったが、その代わりにノルマがあって、それを達成できないと減額されるシステムで深夜までの勤務が常態化。人間関係の軋轢などもあって、このまま勤めていったら体を壊すと判断して辞めた。いま勤務している工務店は将司の高校時代の友人が経営している。

奈美は収入の安定しない夫の稼ぎをあてにすることをやめ、子供の教育費を捻出するためにスーパーで働き始めた。当初はレジ打ちが主な仕事だったが、結婚するまでは銀行に勤めていたこともあり数字に明るく、経理もこなせたことから本社勤務に抜擢され、正社員となった。収入は将司よりもはるかにいい。家計の主導権は奈美が握っている。

「それじゃあ、自転車の件はおとうさんに任せるから。それでいいのね」 奈美が念を押してきた。

「ああ、わかった」

気のない返事をした将司は奈美のまっすぐな視線から目を逸らし、飲み掛けの缶ビールを手にテレビの前でごろんと横になった。テレビのリモコンを押したら娯楽場番組が放映されていたので、すぐに消して腹ばいになったまま夕刊をめくる。読みたい記事はなかった。新聞は活字を追っているだけなので、内容が頭の中を通り過ぎていく。

奈美は夫のこうした態度が癇に障るようになっている。晩酌と食事だけが楽しみ。いまさら学問をしろとはいわないまでも、志を立ててなにかを極めるということがどうしてできないのか。夫は50にまだ手が届かない年齢。働き盛りでもあるのに、好奇心のセンサーを失っている。なにを目的に暮らしているのだろう。奈美は時々、夫が分からなくなった。

明日は早朝から会議の予定がはいっている。

「いまから資料をまとめないといけないので、後片付けをお願いね」

「了解」

将司は妻に背中を向けたままいった。

「ごちそうさま」

さやかも足早にテーブルを離れていく。居間にいるのは父親と息子。

「あばあちゃん、どんな自転車をプレゼントしてくれるのかな」 将司は体の向きを変えて息子に声を掛けた。

「うん」

翔太がスマ―トフォンの携帯画面をみながら気のない返事をする。

(次週に続く)

(五) (六) (七) (八)

(五話)「さっそく、初乗りを楽しむ」


自宅に届いた自転車は変速ギアのついたごくふつうのシティーサイクルだった。飾りがなくシンプルで簡素。いかにも祖母・君枝らしい見立てである。翔太は特別の感慨はなかったが、父親の将司は少し落胆していた。

「いまどき自転車をプレゼントするなら電動アシストだろう。なあ、翔太、そう思わないか」

息子の将司は母親に対する見方が厳しい。

「でも、おばあちゃん好みの自転車じゃないの」

「プレゼントする相手のことを考えてるのかな」

ふだんなら、まあなですませてしまうところを将司は妙にこだわっている。翔太は素っ気なくいった。

「高校生には電動アシストは必要ないと判断したんじゃないの」

「そうかな」

将司は誰にいうともなく呟いた。

「俺もアシストなら乗りたかったのにな」

玄関先には二台の自転車が並んで置いてある。祖母が翔太に高校入学祝いに買ってくれたものと、母親の奈美がふだん使用しているものだ。少し前までは三台あったが、放置していた自転車をリサイクル業者に引き取ってもらったので、心なしか風通しがよくなっている。新しい自転車の相乗効果というのもあって、それまで目障りだった収納ボックスも表からみえないところに移動した。枯れたまま放っておいた鉢もきれいに片づけられてすっきりしている。不思議なものでニューフェースの自転車があるだけで玄関先の景観が変わってきた。春の日差しに照らされたサドルやスポークがきらきらと輝いている。

もっとも喜んでいるのは母親の奈美だった。

「これでやっとまともな玄関先になったわね」

妹のさやかもどことなく嬉しそうだ。

「おばあちゃんから自転車が送られてこなかったら、玄関先は足の踏み場もないほどのぐちゃぐちゃ状態だったんだから、この際、おばあちゃんに感謝しなくっちゃ」

祖母の顔を思い浮かべながら翔太はざっそく初乗りを楽しんだ。この自転車、けっこう気に入っている。なにより軽快。見た目はふつうのシティーサイクルだが、ペダルを漕ぐ感覚が軽いのである。細かなところにいろんな仕掛けがしてあるのだ。車輪の息遣いも聞こえてきて、自転車が跳躍しているのが伝わってくる。この自転車、けっこういいものかも知れない。

大通りから商店街にはいったところで蕎麦屋「長寿庵」の店主から声が掛かった。

「翔太、いい自転車に乗ってるな」

おじさんと父親の将司は幼友達。といってもおじさんのほうがいくつか年上である。昼のお客が引いてひと段落したらしく、作務衣を脱いで表にでてきたところだった。

「どうしたんだ、その自転車」

おじさんはけっこう目ざといのだ。

「あ、これ・・・」

翔太はぐっと言葉を飲み込んだ。翔太のことならなんでも知っているというおじさんだけに、余計なことを口にすると話が独り歩きするきらいがある。

「あ、そうそう。今度、高校生になったんだな」

狭い商店街は情報が筒抜けだ。

「え、まあ」

「高校にはこの自転車で通うのか」

そうしようと思っている。けれど、なぜか、素直になれない。

「さあ、どうかな」

翔太は隠しごとがあまりうまくない。顔にでてしまうのだ。

「入学祝いにおばあちゃんに買ってもたったのか。だったら自転車で通学しなきゃいけないわな」

なんでこうも図星なんだろう。もう、いやになってくる。

(次週に続く)

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(六)「自転車通学での新しい発見」


高校に自転車で通い始めてまだそう日が立っていないが、新しい発見がいくつかあった。まず、自転車通学者はごく一部であること。しかも、部活で帰りが遅くなる生徒が大半を占めていること。駐輪場に並んでいるのはほとんどがシティーサイクルである。マウンテンバイクやロードバイクも見掛けるが、それは数えるほどで、やはり、高校生の通学はシティーサイクルが主流らしい。ここに、電動アシストがあったらどうだろう。やっぱり浮いていただろう。祖母がシティーサイクルを選んだのは慧眼だった。

教職員では教頭の児島先生が自転車を利用している。朝、翔太が駐輪場に自転車を停めていたとき、巡回にやってきたから教頭に呼び止められた。

「君の名前は」

どことなく犬のブルドックを思わせる風貌である。ずんぐりしていて、いかついイメージについ気圧される。なにかミスってしまったのか。高校には制服がなく基本、服装は自由だ。といっても、許容範囲というものがある。ミュージシャンのように髪を染め、ど派手な服装をして登校したら警告されるだろう。翔太は自分の服装をたしかめ、靴の先まで目をやった。地味目にしているので問題はないはずだが・・・。

教頭は翔太のとはまったく別な角度から訊ねてきた。

「もしかしたら君は・・・」

翔太のフルネームをいってきたのだ。

「ええ、僕がそうですが」

「そうか、君が翔太君なのか」

教頭のいかつい顔がゆるんだ。どうして名前を知っているのか。薄気味悪かった。

「君枝先生は元気ですか」

教頭は祖母の名前を懐かしそうに口ずさんだ。

え、えっ、なんなの、それ。

「私はね、君のおばあちゃん、君枝先生の教え子なんだよ」

翔太はうろたえた。

「君枝先生に教わったのは中学のときだったな。私は腕白がすぎてよく叱られたのよ。友人をいじめたとか道義に反したときなどは厳しかった。廊下に立たされたことをいまでも覚えているよ。でも、優しかったな。君枝先生と出会わなかったら、教員になっていなかったかも知れない。先生の消息は人づてに聞いているよ。いまも元気で地域活動に参加しているみたいだね。現役を退いても人を勇気づけている。いかにも、君枝先生らしい」

「はあ、そうですか」

恥ずかしいというか、そういうのが精一杯だった。頭の中にいきなり突風がやってきて翔太を混乱させていたのだ。それから教頭は祖母の人柄を彷彿させるような言葉をいくつか口にしたが、ほとんど聞いていなかった。この場から早く、解放してほしい。そんな気持ちだった。ほんの数分の立ち話だったけれど、翔太にはもの凄く長いものに感じられた。「この、自転車、祖母からのプレゼントなんです」と口から出掛ったが、ぐっとこらえた。そのぐらいの冷静さは持ち合わせていたのである。一見、いかめしい顔つきの教頭はけっこう話好きであることもわかった。

このことを祖母や家族に知らせるべきか。伝えれば祖母は喜ぶだろう。それは目にみえている。しかし、長いこと教壇に立って数多の生徒と接してきた祖母に教頭の存在は記憶にあるのだろうか。教頭は祖母によく叱られたといった。それだけに覚えている可能性が高い。「あの児島君がね、翔太の高校で教頭をしているとは。これもなにかの縁ね」と目を細めるだろう。それにとどまっていればいいのだけれど「今度、連絡してみるよ」なんていわれたらたまらない。

教頭との一件は訊ねられるまで家族にも内緒にしておこう。父親の将司はあまり関心を寄せてこないだろうが、母親の奈美は異常に反応してくるはず。妹のさやかもしかりである。知らせることでそれが負担になってくるのは、翔太自身が一番、よくわかっていた。奈美などは「今度、ご挨拶してこようかしら」なんていいかねない。そういう軽率な行動が息子を傷つけていくのだ。優等生だった奈美には万事、出遅れ気味の息子の微妙な心理を忖度する回路は残念ながら持ち合わせていない。

(次週に続く)

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(七) 「部活は『不思議倶楽部』に」


放課後、翔太は駐輪場から自転車を引いて校舎と向かい合っている建物まで歩いた。そこは旧校舎。校舎を建て替えるときに、一棟を再利用のために残しておいた。低層で天井が低く、照明もやや薄暗い。この棟に文化系グラブがまとまっていて、廊下を挟んでその両側に部室が並んでいる。翔太はどういうものがあるのかその概略はつかんでいたが、実際、現場にやってきたのは始めて。といって特定のクラブが目当てで訪れたわけではない。あくまで、物見遊山である。

文化系クラブは新聞部、美術部、書道部、俳句部、囲碁部などその数およそ二十。

「へえっ、いろんなものがあるんだな」

これが翔太の偽らざる感想である。それぞれのクラブにはそれなりに歴史と伝統があるらしく、部室のドアのところに記された名にその矜持が現われている。もっとも、誇り高いのが新聞部だろう。一般紙から取材を受けるほどの活躍で、高校の新聞部がつくった紙面の質を競う大会では入選の常連だ。一般紙をあまり読まない翔太もその存在だけは知っていた。実際、部室の前にやってくると足が竦んだ。場違いなところに佇んでいるという思いがそうさせた。部室はシーンと静まり返っている。

「これが、気高い新聞部か」

胸の内でそう呟いてみたが、心は動かされなかった。ドアをノックする気持ちにもならなかったのでそっと背中を向ける。臆病な翔太は自分が場違いなところに迷い込むとあとで後悔することを皮膚感覚で認識していた。

「入部したいところはないなあ」

自転車部があったら入部してもいいかなと漠然と思い描いていたが、残念ながらそういうクラブはない。といって、この高校に在籍している限り「部活はしません」ではとおらないのだ。「文武両道」をモットーにしているだけに、いずれかの部に所属しないと学校からきついお叱りを受ける。そのことが念頭にあったので文化系クラブがあつまっているこの棟に足を運んだのだ。部室は途中から「野鳥の会」「鉄道の会」などサークルに近いものになっている。部活を紹介した印刷物にはこれらのものはすべて「他」の部類に統括されグラブ名は記載されていなかった。

目にとまったのが「不思議倶楽部」だった。ドアにぶらさがっているプレートは年季が入って黒ずみ、手書きの文字が重厚さを漂わせている。野鳥や鉄道などはイメージできるが、このクラブだけはその輪郭すらつかめない。なにをやっているのだろう。好奇心が芽生えた。部屋には明かりがついている。「ノックしてみようか、いや、やめておこう」という思いが行きつ戻りつ思案にくれていると、ふいに後ろから肩をぽんと叩かれた。ぎくり。振り向くと色白で目元の涼しい生徒が親しげに声を掛けてきた。

「ようこそ、不思議倶楽部へ」

これが広瀬先輩である。「不思議倶楽部」の部長で翔太がのちのち顔を突き合わせることになる人物だ。不思議という部のネーミングを背負っているわりには実直そうで誰からも好感を持たれそうな顔立ちでヘンなところがまったく感じられない。翔太はこの広瀬から入部の勧誘を受けることになる。

広瀬は開口一番こういってきた。

「君の顔には不思議がたくさん貼りついているぞ」

占い師でもあるまいし、いきなりなんていうことを。冗談にしてはきつい。翔太が真意を測りかねて面喰っていると、広瀬は白い歯をみせながら「マジ、そうみえるんだから仕方ないよ」といって眩しい視線を投げてくる。翔太は異性からじっとみつめられているようで、くすぐったくなって目を伏せた。

(次週に続く)

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(八) 「部屋の壁に自転車競技のポスター」


廊下に人影はなかった。立ち話をするには恰好の場である。「不思議倶楽部」の部長である広瀬は翔太の心中を見通したように毅然といってきた。

「君は僕がヘンなことをいっていると思ってるんだろう」

「ええ。まさに、そのとおりで」

翔太は口がはぐはぐして時代劇がかった言い方をしてしまった。

「なぜに、顔に不思議があると」。

広瀬が鼻先で笑った。

「見た目の直感だよ。これを説明するとなるとやっかいだけれど、体に不思議がくっついているのは悪いことではない。いや、かなりいいことでもある」

といって広瀬は逆に「自分に対する第一印象」を聞かせてきれと翔太に額を近づけてきた。忌憚のない意見をいうしかなかった。

「先輩は・・・」

翔太はそういったあとで、ああ、ミスったと。初対面で先輩とはいかにも馴れ馴れしくないか。

「部のネーミングから猛者、または、見るからヘンな人物を想定していたけれど凄みがあまりなかったので。いや、だけと、なかなかミステリアスですよ」

しどろもどろになりながら翔太は的の得ない感想を述べた。

「うん、君は正直だね。気に入ったよ。我が部が望んでいるような人物だ。入部するべくやってきたというところかな。ひと目みてピーンときた。じゃあ、いまから部の概要を説明するからね。僕は同じことをいいたくないので話をメモしなさい」

翔太は入部するとはひとこともいっていない。それなのに、広瀬は入部が決まったと確信したような物言いだった。このへん、かなり強引である。

「時間はあるんだろう。どうせ、暇してんだからいいよね。立ち話はすんだから部屋にはいってはいって」

部室は雑然としていて足の踏み場みないほど印刷物が散らかっていた。なぜか、壁に自転車によるレースの写真が掛かっている。トライアスロンか、それともロードレースか。ヘルメットをつけたレーサーたちの太腿の筋肉がアップになっている。翔太は立ったままその写真に目を向けていた。

「自転車に興味あるの」

広瀬が興味深げに訊ねてきた。

「ええ、少しだけ」

翔太が神妙な顔でいうと、広瀬がぽつんと呟いた。

「自転車って不思議な乗り物だよ。一度、はまったら虜になるひとが多いからね」

「趣味なんですか。自転車は」

「・・・・」

広瀬は翔太の問い掛けには答えなかった。

部室は中央に長椅子が二脚並べてあり、その周りを新聞、雑誌、単行本などがうず高く積み上がられている。地震でもきたら地崩れを起こしそうだった。この場所が高校の文化系クラブであることを伏せていたら、零細出版社の編集部といってもいいような景色である。となると、広瀬は編集長といったところか。

「そこに腰かけて」

広瀬が顎をしゃくってきたが、「そこ」がどこか分からない。そもそも座るスペースなどないのだ。仕方なく翔太は雑誌の束をずらしてわずかな空間をこしらえ壁に立て掛けてあった椅子を抱えてきて居場所をこしらえた。

「このクラブがどんな活動をしているか、君はおそらく知らないと思う」

「ええ。まったく」

「雑誌を発刊しているんだよ」

高校生が雑誌づくり?。翔太には意外なことだった。そんなことができるものなのか。

広瀬は悠然といった。

「その本棚に並んでいる雑誌はうちが編集したものなんだ。目次だけでいいからざっと目をとおしてもらえれば活動が一目瞭然だよ」

(次週に続く)

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(九) (十)『自転車の不思議』

(九)  「部活の顧問も部長も自転車通学」


広瀬が棚のうえに積み上げてあるサークル誌『不思議倶楽部』の一冊を抜き取って翔太の前に差し出してきた。

「これ、最新号。季刊で年に四回発行しているんだ」

表紙は浮世絵で題字のロゴは勘亭流で縦書き。横文字全盛の時代に背を向けるような装丁は古色蒼然として歌舞伎の筋書みたいだ。しかも、見出しがあるわけでもなく目次をみないとどんな内容が盛り込まれているのか見当がつかない。初めて手にする読者にしてみれば奇妙な違和感を抱くだろう。もっとも、それが狙いだ。

「ざっとでいいから目をとおして」

どんな感想を抱くのか。広瀬は目の前にいる新入生の反応をみたかった。現在、部員は男三人女四人の計七人。慢性的な部員不足で一人でも多くの人材が欲しいところだけれど、誰でもいいというわけにはいかない。適材かどうか、この場はそれをみるための面接でもあるのだ。そんな広瀬の思惑など知る由もない翔太はまず奥付をめくった。編集後記などが掲載してある最後のページである。目次からでなくうしろから見ていく新入生に広瀬はちょっと驚いた。

「へえっ。君って面白い読み方をするね。ふつうは目次から順にみていくだろう。なのに、逆からだ」

誰から教わったわけではない。翔太は雑誌を拾い読みするときはいつもそうしている。だから、ふだんどうりのこと。広瀬は一見、頼りなさそうにみえるこの新入生に期待が膨らみ、案外、上出来のタマかも知れないとほくそ笑む。

翔太は部員紹介のところに記されている顧問に関心を抱いた。「児島」とある。

「この児島という人は」

翔太は広瀬に目をやった。

「ああ、うちの顧問で教頭の児島先生だよ。本来はクラス担当の先生が顧問になるんだけれど、教頭の場合は例外でね。先方からやらせてくれといってきたんだ。随筆を書いてもらっているよ」

「へえっ、そうなんだ」

翔太が呟いた。

「児島教頭を知っているの」

「うん、駐輪場で声を掛けられたので」

教頭は自転車で通っている。

「君、自転車通学なの」

「ええ、まあ」

翔太が遠慮がちに小声でいうと広瀬はにやりとした。

「じつは僕も自転車でね。ということは自転車仲間ということだ。そうか、僕らはどこかで繋がっているみたいだね。君はうちのサークルに入るべくしてやってきたというわけだよ」

理屈もへったくれもない。新入生を脈ありとみた広瀬は無茶苦茶なことをいってくる。こういう場合、相手に考える隙を与えないで攻めることが好機をもたらすことを知っているのだ。

「・・・・」

翔太はどう応えていいのか分からないで瞬きを繰り返した。緊張したときや判断に迷ったときの癖である。入部すべきか、辞退すべきかで混乱している。広瀬が白い歯をみせながらにこやかに笑ってすっと手を差し伸べてきた。

「じゃあ、入部は決まり。いいよね。あっ、そうそう。来週の金曜日にこの部室で編集会議があるんだ。ほかの部員に君のことを紹介するから出席してね」

「はあ」

話がひとりでにころころと動いていく。広瀬が何冊かの『不思議倶楽部』を抱えてきた。それをどさりとテーブルに拡げる。

「これ、けっこう話題になったバックナンバー。編集会議までに目をとおしておいて。僕、これからちょっと用事があるので席をはずすから、ここで読んでもらっても構わないよ。しばらくしたら戻ってくるから」

どの号も表紙は浮世絵になっている。教室や自宅には持ち帰りたくないので翔太は部室で読んだ。

(次週に続く)

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(十)『自転車の不思議』

最新号は「食」がテーマだった。翔太がタイトルを目の縁にいれて頁をめくっていく。「なぜ、ちゃんぽんは東京ではメジャーになれないのか」。翔太は自身の食体験を振り返ってみる。タンメンはよく食べるが、ちゃんぽんは数えるほどしか口にしていない。といって、マイナーなのか。ちゃんぽんはすでに広く受け入れられていてメジャーな食べ物だと思うけれど、どうも『不思議倶楽部』ではそういう位置づけではなさそうだ。

ハンバーガーを扱った記事もある。「あなたは本当にマック派なのか」。駅前にある中高生に人気のマクドナルドと道路を挟んで向かいに店舗を構える競合店とを比較しながら、正統的な「マック派」とはどういうものかを考察している。

体験ルポは「なぜか、女子高生は牛丼が食べたい」。昼の混雑時に制服姿の女子高生がひとり牛丼店でおじさんたちに混じってガツガツと大盛りをたいらげていく。周囲から好奇な視線を浴びせられるが食い気のほうが勝っている。臨場感をだしながらユーモラスに書いてある。

広瀬が戻ってきて背後から声を掛けてきた。

「どう、感想は」

「なんていうか」

「いってよ、遠慮はいらないからさ。正直なところを」

テーマが現実的というか、これではテレビの娯楽番組とあまり変わらない。『不思議倶楽部』が扱うようなテーマなのか。翔太は忌憚のない意見を述べた。

広瀬は新部員の指摘が嬉しかった。「面白い」といわれたら幻滅しただろうが、疑問を投げ掛けてくるなどなかなか見所がある。翔太はバックナンバーに関しても感想をいってきた。広瀬が翔太に手渡したのは最新号のほかに「UFOの正体」「徳川埋蔵金の謎」「死後の世界」「臨死体験」の特集を組んでいるバックナンバーの四冊。

「要はその時々で不思議なもの、疑問に感じたものなどをテーマに誌面づくりをしているんだ。UFOの存在にしてもいまはそれほど話題にはなっていないので扱わないだけだけど、面白いことを発見したら急きょテーマにしていく。最新号の食に関しても同じことがいえる。いま、食に対する関心が高いからね。編集方針の根底には常に不思議や謎を含んだものをテーマにするという考えなんだよ」

翔太にはもうひとつ気になるところがあった。どの号もそうだけれど、頁の下段に飲食店、書店、スポーツ用品店などの広告がはいっていることだ。

「商業誌じゃないのでスポンサーとはいわない。賛助会員というのが正確なところかな。協力費という名目で頂いている。印刷費をまかなうためには仕方ないんだよね。幸い『不思議倶楽部』は地元に受け入れられているのでどこも協力的だから、最新号をもって挨拶にいけばそれで済む。先方もこちらの事情を知っているので簡単なことさ。君にはこれを担当してもらう。新入部員が一度は通る関門だよ」

営業からスタートするということか。たしかに一般社会の企業ではそういうとこもあるだろうが、サークル誌でもそういうことをやるのだろうか。

翔太は急に不安になってきた。それに、追い打ちを掛けるように広瀬がいってきた。

「あ、そうそう。新入部員は必ず『不思議倶楽部』の最新号に紹介を兼ねて記事を書く。これが習わしになっているんだ」

「ええっ」

翔太にとっては青天の霹靂である。広瀬が素っ気なく訊ねてきた。

「君、趣味はあるの」

ない。いや、強いていえば自転車かな。といっても、こじつけみたいなものだけれど。

「好きなのは自転車に乗ることだけど」

口から出まかせをいったら広瀬が目を輝かせた。

「そう、いいじゃないの。じゃあ、君は次号で自転車の不思議と題したものを書いてよ」

自転車に謎なんてあるのだろうか。

(次週に続く)

(十一)(十二)(十三)

(十一)なぜか、図書館に『不思議倶楽部』がある


趣味が自転車といったのは藪蛇だったかも知れない。翔太は悔やみながら部室をあとにした。「口は禍の門」とはよくいったものである。

困った。

そもそも、原稿なんて書いたことがないのだ。作文だってめったなことでは書かない。せいぜい、中学のときに読書感想文を記したことがあるけれど、それも嫌々である。ろくに本も読んでいないのだから、書こうにも文字が降ってこなかったというのが偽らざるところだった。 

 参ったな。

これが翔太のホンネである。

たしかに、自転車に乗っているときは楽しい。気分は浮き立つけれど、ただ、それだけ。なのに、「不思議」「謎」を絡ませて書けという。ハードルは限りなく高い。一体、どういうことになるのだろう。

日曜日、翔太は自転車で図書館に向かった。これといってアテがあるわけでもない。ただ、なんとなく。広瀬から与えられた「自転車の不思議」の原稿をどうまとめたらいいか。その道標になるようなものを求めていたのだった。とはいえ、図書館を利用したことがない翔太は閲覧の仕方が分からない。閑散としているかと思ったらけっこう混んでいて、窓口のカウンターでは係員が利用者の貸し出し、返却の対応に追われている。館内を巡回している警備員のおじさんが翔太にちらりと目を向けてきた。声を掛けられたらうっとうしいので、足早にその前を通り過ぎると、書庫の整理でもしていたのか、バッチをつけた女性が数冊の本を抱えてやってきたので、これ、幸いとばかりに自転車コーナーの書棚を訊ねた。

そこは狭いスペースに自転車関係の書籍がぎっしり並んでいた。ムック本、単行本、雑誌、写真集、小説、紀行文、随筆など。よくこんなに発表するのがあるなと思えるほど分野が細かく分かれていた。自転車乗りのマナーから歴史、人気車種、電動アシスト、サイクルスポーツ、アウトドア派の自転車選びなど多種多様である。なかには自転車に乗って登山を楽しむといった奇想天外なことをやっている人が書いた本もある。

翔太は片っ端からめくっていった。読むのでない、見るのだ。立ったまま小一時間ほど書棚と向き合っていた。ない、ない。「不思議」に該当するような参考本が見当たらないのである。ふっーと溜息をつくと、なんとなく気だるくなってきた。もともと集中力があるほうではないので、慣れないことをやるとどっと疲れる。入館したときに右手の奥のほうにあった新聞、雑誌がまとまって置いてあるコーナーを思い出した。

漫画は置いてないかも知れないけれど、なんか読むものがあるだろう。

翔太は書棚を離れそこに向かった。定期刊行物を置いているところは意外に広いスペースをとっていて、長椅子がいくつか向かい合って並んでいた。雑誌の棚が横長に伸びている。旅の専門誌を手に椅子に腰かけて頁をめくっていると、対面でみたことがある雑誌に目をやっている女性がいた。年齢は翔太の母親・奈美と同じぐらいか。

えっ、マジ・・・

翔太は心の中で叫んでしまった。『不思議倶楽部』に目をやっているのだ。表紙には閲覧用のスタンプ。ということは、この図書館が所有しているものである。翔太はすっと立ち上がった。棚に『不思議倶楽部』の枠が設けられて一年分のものが、自由に読めるようになっていた。「寄贈」とある。部長の広瀬は図書館に置いてあるとは一言もいっていなかった。翔太は不思議な気分になってきた。自分の書いたものが学校だけにとどまらずに多くの人の目にとまる。そう考えると気分が重くなってきた。

いまからでも遅くない。やっぱり、入部を断ろうか。弱気虫が疼き始めると翔太はマイナス要因しか考えられなくなる。

(次週へ続く)

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(十二)自転車を押して父親とカレー店で外食 

自転車で高校から帰宅すると父親の将司がいた。母親の奈美はまだ帰宅していない。妹のさやかは塾にでもいっているのか姿がみえなかった。ふだんなら将司はもう少し遅く帰ってくるのだけれど、なぜか、この日は早い。母親と妹の存在はあまり気にならないけれど、翔太は父親どういうわけか父親を無視することができなかった。

家族には『不思議倶楽部』のことは打ち明けていない。部屋でテーマである「自転車の不思議」の構想を練ろうかとぼんやり考えていだけに、将司の存在は想定外だった。

「なんで、きょうは早いじゃん」

将司は居間のテーブルで眼鏡をずり降ろして新聞を拡げている。

「ああ。仕事、暇だしな」

気のない返事がかえってくる。将司は友人の経営する工務店に臨時社員として勤めている。もともと望んで働いているわけではない。職がみつからずに当座の生活費を稼ごうとしているだけなので、仕事に対する意気込みが希薄なのだ。

「クビにでもなったの」

「なんで」

将司が曖昧な笑いを浮かべた。翔太は父親のこの顔があまり好きではない。言いたいことをいえない、いや、言おうとしない性格は自分とよく似ているからだ。

「これ、おかあさんからの伝言だ」

そういって将司は奈美のメモ書きを翔太に渡してきた。妹のさやかと急行の停まる駅前で待ち合わせをして最近、オープンしたイタリアンで食事をして帰るので適当に食事をすませてくれと書かれている。

「女同士、なんか話があるんだろう」

将司はさして気にも留めないでいう。奈美とさやかが時々、携帯で連絡をとりあって外食することは珍しくなかった。さやかにとって母親はよき友人でもあり、相談相手でもある。将司は娘からのけもの扱いされているほうが父親にとってはラクと考えているところがあり、さやかに関しては一切、干渉しない。父親とって感性の豊かな年頃の娘はちょっと近寄りがたい宇宙人なのだ。

新聞をたたんで将司がいった。

「翔太、俺たちも外食といこうか」

「いいけど・・・」

ホンネをいえば家にいたかったけれど、翔太はなぜか父親の誘いが断れない。弱い立場に甘んじているもの同士、通じ合うところがあるのだ。

翔太が自転車を押し、そのあとを将司がとぼとぼついてくる。二人がはいったのはカレー専門店。お手頃な値段なのは分かっているので将司が「奮発するから好きなものを食べていいぞ」と胸を張る。自転車を店頭のたまり場に駐輪した翔太はしっかりと鍵を掛けた。こんなところで盗まれたらシャレにならない。時間帯もあってか、帰宅帰りの人たちで店内は混んでいる。窓際の席はとれなくてレジ近くのテーブルに案内された。

「俺はとりあえず、ビールといこう」

メニューに目をやりながら将司がいった。そんな父親を娘だと眉をひそめるが、息子はおおらかだ。

「ここは居酒屋じゃないからね。あんまり言いたくはないけれど」

翔太にやんわりとたしなめられた将司が苦笑いを浮かべた。

「そんなことはわかっているよ」

ちょっとムキになった。

「じゃあ、ぼくはカツカレーにしようっと。あとコーンサラダ」

メモをとった店員がオウム返しにメニューの確認してくる。将司がぐいぐいとビールを飲む。嫌な予感がした。将司は飲みだすと止まらなくなるのだ。奈美やさやかがいれば厳しい監視役になるが、翔太では荷が重い。店をでるとうっすらと顔にあからみが差す将司の顔に剣呑なものが現われている。

「おとうさん、ちょっと寄っていくところがある。翔太、先に帰っていいぞ」

ビールが呼び水となってしまったのだ。結局、将司が帰宅したのはその夜、遅くなってからだった。呂律が怪しくなっていたのでかなり飲んだのだろう。上機嫌でのご帰還だった。翌朝、奈美の怒りがはじけ飛んだ。

「よく覚えていなんだよな」

将司はけろりとしている。あるところから記憶がぷっつんと途切れてしまったらしいのだ。珍しいことではない。

(次週へ続く)

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(十三)<祖母のところに自転車のお礼に>

「あ、そうそう。おばあちゃんから電話があったわよ」

翔太が風呂からでてきたとき母親の奈美に呼び止められた。

「いつ?」

「翔ちゃんがお風呂にはいっているとき。なんなら呼んできましょうかといったら、おばあちゃん、急ぎじゃないからいいって。手が空いたとき連絡してくれって。電話してあげてね」

奈美はそれだけいうと食卓に拡げてあった書類を茶封筒にいれてさっさと自分の部屋に引き上げてしまった。この家には第一線でバリバリ仕事をしている母親のプライベートルームはあるが、友人の会社でアルバイトをしている父親の将司には自分の部屋がない。いま奈美の使っているところはもともと夫婦の寝室だったのだが、甲斐性のない夫がそこから追い出されてしまったという構図である。居場所を失った将司は居間という大部屋に移ってきて、寝るときはテレビの前に布団を敷いているが、これはこれで満足しているようだ。一家の長が屈辱的な扱いをされているとか、どうにかならないかなどと不満を述べることもなく、それどころか深夜でも心置きなくテレビが観られるので居心地は悪くないのである。

その将司はまだ帰ってきていない。妹のさやかは自分の部屋で英語塾の宿題である発音の練習を繰り返し行っている。翔太はバスタオルをかぶったままコーラを口に含みながら祖母の君枝に連絡をいれた。

夜型の君枝にとっては午後の十時過ぎはまだ宵の口である。

「あ、おばあちゃん。ぼく、翔太だけれど。電話くれたんだって」

「そうそう。ちょっと翔ちゃんに話したいことがあるのよ。忙しい?そんなことないわよね。近いうちにおばあちゃんの家にこない?」

「話したいことってなによ」

「電話ではいえない」

君枝が含み笑いをする。

ひさしぶりに孫の顔でもみたくなったか。いや、いや、祖母に関してはそういうことはない。だったら、なんだろう。意味深な言い方をするのはいつものことだけど、話を聞くとどうでもいいようなことが多い。

「まあ、遊びがてらいらっしゃい。奈美さんには作れないような愛情たっぷりのおばあちゃんの手料理をごちそうするから」

皮肉たっぷりの嫌味を言った。嫁と姑のぎくしゃくした関係はどの家庭でも大なり小なりある。互いに一定の距離を置いて接していた。

翔太はプレゼントしてくれた自転車のお礼をちゃんといっていなかったことに気づいた。祖母は口頭でいわれるより、ハガキや手紙で感謝の気持ちを寄せられるほうがが好きなので、一筆記さないといけないなと思ってはいるが、まだ実現していない。

「自転車、乗り心地最高だよ。ありがとう。本当ならハガキを出さなくちゃいけないんだけれど、延び延びになっちゃって。ごめんね」

「いいのよ、そんなこと」

ふだんなら苦言のひとつもあるところだが、それがない。

「今度の土曜日なんかどう?」

君枝がさり気なく誘いを掛けてきた。

スケジュールをみるからとちょっと待ってなんて気の利いたことをいってみたいところだが、翔太にはもとからそんなものはなかった。

「いいけど、何時ごろ」

つい、君枝の話に乗ってしまった。ホンネをいえば行きたくなかったけれど、翔太はどういうわけか断ることが苦手である。嫌なのになかなかイヤとはいえない。そのへんは母親や妹とは正反対である。優柔不断なところは父親そっくりだった。

(次週へ続く)

(十四)(十五)(十六)

(十四)教え子から情報が筒抜け 

祖母・君枝の家は自転車で行けない距離ではないけれど、翔太は電車を使った。帰りのことを考えると電車のほうが無難である。ドアチャイムを押して来訪を告げると君枝は待ち兼ねたように笑顔を振りまきながら玄関を開けた。

「いらっしゃい。早かったじゃないの」

君枝の目にはいった孫は身長が伸びて急に大人になったようにみえた。

「電車だったから」

孫の口数が少ないところは変わっていない。

「翔ちゃんの自転車姿をみたかったな」

自転車でやってくるものとばかり思っていた君枝は少し残念そうだった。

「今度、くるときに乗ってくるよ」

翔太はやや緊張した面持ちで自転車をプレゼントしてくれたお礼をいい、母親の奈美がもたせてくれたクッキーのはいった紙袋を差し出した。この洋菓子、けっこう人気があり君枝もその存在を知っている。

「あら、あら、奈美さんも気を遣っちゃって。もっとやることあるのにね。こんなことしなくてもいいのに」

「お母さんがよろしくっていってた」

「ふーん」

君枝の中に奈美のつんとすました顔が浮かんだ。「よろしくか、ま、そういうことにしておこう」と胸の内で呟いたあと、些細なことにこだわっている自分がバカらしくなってきた。翔太は絞りたてのグレープフルーツジュースを喉元をごろごろさせながら飲み終えた頃合いをみて、聞きたいことを訊ねた。

「それはそうと、翔ちゃん、面白いクラブに入部したみたいだね」

翔太のグラスを持つ手がぴたりと止まった。「なんで、知っているの」という驚きの顔をしている。

「その文化系クラブ、なんていったかな。『不思議倶楽部』とか。季刊でサークル誌を刊行しているんでしょう。顧問は児島先生」

翔太がこっくりと頷く。

「児島君はね、おばあちゃんの教え子なのよ。彼が教師になっているということは知っていたけれど、翔ちゃんの高校で教頭をしているとはね。聞いてびっくり。翔ちゃんが入部したクラブの顧問だっていうことも奇遇だわ。これもなにかの縁よ」

君枝は『不思議倶楽部』にやたら詳しかった。

「おばあちゃん、児島先生とじかに会ったの?」

翔太が恐る恐る訊ねた。

「そうよ。彼のほうから連絡があってね。今度、先生のお孫さんがうちの高校に入学して、しかも、ぼくが顧問をしているクラブに入部したと教えてくれたのよ。彼とはしばらく会っていなかったので、話が弾んでね。翔ちゃんとは学校の駐輪場で初めて会ったといっていたわ。彼も自転車で通っているんだって。あばあちゃん、嬉しくなっちゃって」

聞いているほうはまったくつまらない。気持ちは落ち込むばかりだ。家族に『不思議倶楽部』のことは知れるまで内緒にしておこうと考えていたが無理かも知れない。

それでも嘆願するだけしてみよう。

「お願いだから、僕がいうまでおとうさん、おかあさん、さやちゃんには黙っておいてね」

「了解」

君枝はこう言うのだが・・・・。


次週へ続く

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(十五)さぐりをいれてくる祖母 

「やっぱり、こなきゃよかった」

祖母・君枝の家から駅に向かう途中、翔太の足取りはとても重かった。君枝はサークル誌『不思議倶楽部』の次号で翔太の原稿が掲載されることを知っていたのだ。

「好奇心旺盛なのもいいいけど迷惑だよ。まったく」

翔太がぶつぶつ呟いている。

さすがに君枝も「自転車の不思議」というテーマまでは把握していなかったが、誌面の性格、特徴など当の翔太よりも詳しかった。気持ちがむしゃくしゃしてきて、怒りの矛先が教頭にまで向けられた。

「児島先生もおかしい。いくらおばあちゃんの教え子だからといってこっちには関係ないだろう。一生徒のプライベートなことまで話すなよ」

君枝の嬉しそうな顔もしゃくに触った。孫がサークル誌に原稿を寄せることに目を細めて喜んでいるのだ。「期待しているわよ」といったが、それがどれだけプレッシャーを与えているのか。幼い頃から優等生だったおばあちゃんには到底、理解できないだろうな。

翔太の呟きはとまらない。

「おばあちゃんもおかあさんとよく似ている。自分の尺度でみるなっていうの」

背中のリュックも重かった。帰りしなに君枝から「原稿の書き方」のマニュアル本を持たせされたのである。押しつけられたといったほうがいい。無理やり荷物の中に詰め込んだのだ。英語塾に通っている妹・さやかに手渡す英会話のCDもはいっている。おまけに手にはおみやげのはいった大きな紙袋。手作り餃子と、昼に翔太がごちそうになったビーフシチュー、五目ちらし、漬物などがタッパーに小分けにされてはいっている。君枝には「しばらくうちの家族には黙っていて」と釘を刺しておいたが、話好きの祖母だけにどこまで約束を守ってくれるか。翔太の心の襞にはもやもやしたものが絡まっていた。君枝の洩らした一言も気になる。

食事をしているとき

「おとうさん、最近、どう?」

と君枝が訊ねてきたのだ。

「どうって」

鸚鵡返しに翔太が言うと

「仕事のほう、うまくいっているのかしら」

君枝の顔がちょっと曇って、息子を案じる母親の顔になったのである。

「ふだんどおりだよ。時々、お酒を飲んで帰ってくるけど、まあ、それも今日に始まったことじゃないしね」

最近、将司は早く帰ってくることが多くなった。翔太が学校から帰ってくると家でぼうっとテレビを観ている。しかし、そんなことは口にしない。

「相変わらず、マイペースというか。飄々としているよ。おかあさんはそんなおとうさんを軽くみているけど、ぼくはけっこう尊敬してるんだ」

翔太がこういうと君枝はにっこり微笑んで

「ありがとう」

とだけいった。

君枝は将司をどうみているのだろう。翔太はなぜか無性に自転車に乗りたくなった。

次週へ続く

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(十六)自転車を押して父親と小公園に


帰宅すると、家族が揃っていた。父親の将司は頬杖をついてテレビをみている。母親の奈美は台所で包丁をふるっていた。妹のさやかは英語のテキストに目をやりながらウオークマンで英会話を聞いている。途中、携帯から奈美に連絡をいれ祖母の君枝から夕食のごはんとおかずを貰ったということは報告済みだ。

リュックからそれらを取り出したあと、翔太はさやかの前にさりげなくCDを置いた。

妹はそれが自分にとってどれだけ価値のあるものかが分かっている。

「え、これ、どうしたの」

びっくりしたような顔をしてイヤフォンを外した。

「おばあちゃんから。さやちゃんにプレゼントだって」

さやかの目が輝いた。

「すっごく、嬉しい。これ、ほしかったの。さすが、おばあちゃん」

英語の教材に関心のない翔太にとってはどうでもいいようなものである。将司もちらりとテレビから目をそらしたが、CDと知って眠そうな顔をしてまた画面を目を戻した。奈美はCDを手にとりしげしげと眺めながら

「お母さんもこれ、知ってる。英会話上達にはけっこう評判のCDよね」

勉強好きの母娘は呼吸がぴったりだ。学ぶことが苦手な父息子は素知らぬ顔をして目を伏せている。祖母から押し付けられた「文章の書き方」のマニュアル本は家族の誰にも見られないように引出しの奥に仕舞い込んだ。

夕食にはまだ少し早かった。君枝の家から帰る途中、ふつふつとたぎっていた自転車に乗りたいという気持ちは持続していた。

「ちょっと、自転車に乗ってくる」

翔太がこういうと、寝転んでテレビをみていた将司も立ち上がった。

「俺も散歩に行こうかな。少し運動してこないと」

奈美はちらりと男二人に目を向けた。

「もうすぐごはんにするから。早く帰ってきてよ」

玄関先でタイヤの空気を確認していると後ろから将司が声を掛けてきた。

「ちょい待ち。俺も行くから」

一旦、家の中にはいってすぐにドタドタとでてきた。灰色のジャージにサンダル履き。髭も剃っていないし、髪に櫛もいれていない。顔には白い粉が拭いている。その恰好、なんとかしろよといいたかったが、見てみぬふりをした。翔太は乗るタイミングを失って自転車を引いている。後ろから将司がついてきた。

「おばあちゃん、俺のことでなにか言ってなかったか」

近況をやんわりと訊ねてきただけである。

「別に、なにも」

「そうか」

将司はそれ以上は訊いてこなかった。

どこに行こうというわけではないが、二人はなんとなく近くの小公園に向かった。公園には人影がなく、肩を並べてベンチに腰をおろすと梢の間から風が流れてきた。

「飲むか」

途中、コンビニに立ち寄った将司がビニール袋から缶入りのアイスコーヒーを翔太に差し出した。暑いので、ほどよく冷えた缶の感触が気持ちがいい。

「俺はこっちだ」

といって、将司はロングサイズの缶ビールを手にした。奈美はさやかの目に触れたらそれこそ大事になる。将司は喉仏を鳴らして一気に半分ほど飲んだあと、ジャージのポケットから煙草を取り出した。

「ここ、禁煙だろう。灰皿ないよ」

翔太が冷たくいうと将司は百も承知だといわんばかりに、携帯の灰皿を拡げてぷかぷかと紫煙を吐き出した。

「こういう機転は利くんだよな」

無精髭を撫でながらひくひくと笑った。

(十七)(十八)(十九)

(十七) 「自転車で日本一周」 2014/06/27


翔太がサークル誌『不思議倶楽部』に寄せた原稿のテーマは「家出少年はなぜ、自転車で日本一周を目指したのか」だった。実際にあった出来事で新聞などに報道された記事をベースに少年の葛藤を描写したものだ。何度も書き直したが内容については満足していない。何を書きたかったのか、推敲を重ねていくうちに混沌として狙いが分からなくなってしまった。

それよりも翔太にとっての怖れは家族に知られることだった。そんな悩みを他の部員は知る由もない。

『不思議倶楽部』部長の広瀬は「着眼点がいい」と好印象を抱いていたが、新入部員に辞められたのでは困るのでおだてているだけなのかも知れない。副部長で広瀬と同じ三年生の麻美は「次号に書いたものをみないとなんともいえない」と突き放したようにいう。顧問の児島教頭は感想を述べることなくにこにこしている。翔太とすれば教頭は祖母の教え子という関係から二人が連絡をとっているふしが窺えるので、それが気掛かりだった。

大柄で存在感のある麻美が黒縁の眼鏡をずりあげて訊いてくる。

「翔太、スポンサーのほうはどうなの」

新入部員は広告取りからスタートする。広告といっても商業誌でなく、しかも高校のサークル誌なので額は知れている。とはいえ、数が集まればそれなりの金額になるので軽視できない。印刷費を補填するうえでも広告は欠かせないのだ。

「ぼちぼちってところですね」といって翔太がスポンサーを記したファイルを拡げて麻美にみせると「えっ、ウソ。ここ、広告を出してくれるんだ」と頓狂な声をあげた。何度となく足を運んだが門前払いをくっていたフィットネスクラブである。

麻美は丸い顔にぽつんと乗っている目をくりくりさせた。

「あんた、どういう頼み方をしたの」

「別に・・・。僕が行ったときにたまたまオーナーがいて、『不思議倶楽部』を差し出して事情を説明したら、なかなか面白い雑誌だね、うん、分かったと。それだけだったけど」

翔太がオーナーの太った体を思い浮かべながら話すと麻美は大きく頷いた。

「そうか。いままで交渉していたのはスタッフだったので決断を下せなかったのかも知れない。なるほど、オーナーなら即決できるよね」

翔太にとって広告を頼みに出掛けるのはそう苦痛じゃなかった。サークル誌という性格上、訪れる商店や企業はおむね好意的で、フィットネスクラブのほかにも新たに開拓したスポンサーがいくつかある。

「けっこう頑張ったよね。この調子」

麻美はこういって翔太をねぎらい、一見、優柔不断で頼りなさそうにみえるけれど、けっこう、面白い奴かも知れないなと翔太の原稿を脳裏に浮かべた。家出少年の自転車旅行はメディアの中でも賛否が分かれ、翔太は少年に同情的で、といって、流されているわけではなく自分の視点で書いた。おそらく、翔太も少年のように家をそっと抜け出して自転車で全国を回ってみたかったのではないだろうか。いや、いまも、そういう願望を胸に秘めているかも知れない。麻美はそう思いながら不器用なところがあるけど、今後、部活に必要不可欠な存在になってくるのではないかと期待を寄せた。部長の広瀬が「見どころがある」とほれ込んでいるのもなんとなく分かる。

「聞いたわよ。次の秋号では行きつけの蕎麦屋さんも広告を出してくれるんだって」

麻美が頬を緩めながらいった。


(十八)「馴染みの蕎麦屋も興味津々」2014/07/04

蕎麦屋『長寿庵』は翔太が広告を依頼したわけでもないのに、先方から連絡してきたのだ。店主の昭二おじさんは翔太の父親、将司の幼友達である。自宅が近いこともあり、幼い頃はよく店にいったが、中学生になると足が遠ざかった。それでも、顔を合わせればあれやこれやと気を掛けてくれる。それが鬱陶しいことも多々あるけれど、基本的に優しい人なので翔太は嫌いじゃなかった。

『長寿庵』は翔太の通う高校とは離れているのでスポンサーの「圏外」である。なのに、どこで情報を仕入れてきたのか、翔太が部活でサークル誌をつくっているということを知り、「うちも広告を載せてくれ」と申し出てきたのだ。さすが「歩くスピーカー」と異名をとるだけのことはある。

「翔太、おまえ文化系の部活にはいったんだって。不思議なんちゃらかんちゃらっていう雑誌を出しているクラブだって」

自転車で帰宅中、店の前を通り掛かったとき路上に打ち水を撒いていた昭二おじさんから呼び止められてこういわれたときには

「えっ・・・」

と絶句してしまったが、「おまえのことなら、ぜんぶ御見通しだ」といって不敵な笑みを浮かべたときは、ちょっと笑えてそのあとはもうどうでもいいような気持になっていた。

「僕が原稿を書いたことも知ってるんだ」

「ああ、不思議なんちゃらかんちゃら、店に置いてある」

昭二おじさんは笑顔を振りまきながら暖簾を掻き分けて一旦、店の中にはいって『不思議倶楽部』を抱えてきて、翔太の前で感慨深げにページをめくった。

「それにしても、翔太がものを書くとはな」

「関係ないよ」

翔太がぼそっという。昭二おじさんはなにか言いたそうな顔をしていたが、それを引っ込めて話題を変えた。

「お前、腹減ってないか」

店の中からいい匂いが漂ってきて、お腹がグウと鳴った。「冷やしたぬき」と「かつ丼」が無性に食べたい。

「おカネないよ」

昭二おじさんがぷっと吹き出した。

「翔太からおカネを貰おうとは思ってないよ。さあ、中にはいった、はいった」

『長寿庵』の営業は昼が午前十一時から午後二時、夜は午後五時から九時まで。時刻は五時を少し回ったところだったので、店内はまだ閑散としている。客で混み始めるのはもう少しあとだ。厨房で夫人の順子おばさんが忙しげに動いていた。

翔太の顔をみると、順子おばさんは手を休めて笑みを投げ掛けてきた。

「あらあら、珍しいお客さんだこと。おばさん、翔太君があんまり来ないから、もう顔を忘れそうだよ」

昭二おじさんは翔太に「かつ丼」を食わせてやれといって階段をあがっていった。住居兼店舗の『長寿庵』は二階を住まいとして使っている。翔太が「かつ丼」をがっついていると、昭二おじさんが二階から降りてきた。

「これ、これ」

といって、複写した紙を手にもっている。

「なに・・・」

箸をとめてそこに目をやると、翔太の書いたところを複写したものであることが分かった。

「どうするの、このコピー」

嫌な予感が芽生えた。

「新聞の置いてあるところに一緒に並べてみようかと」

冗談がきつい。いや、けっこうホンキなのだ。



(十九)「母親と妹もすでに知っていた」2014/07/11


「翔ちゃん、あなた、サークル誌の部活に入ったんだって」

母親の奈美がぽつりと言った。情報源はやっぱり蕎麦屋『長寿庵』の昭二おじさんか。

「うん、まあ・・・」

翔太が目を合わせないで無関心を装って答える。

「読んだわよ」

「・・・・」

口をつぐんでいると

「『不思議倶楽部』って高校近くの図書館に置いてあるのわよね。」

発信元は『長寿庵』ではなかったのだ。もっとも、サークル誌は広告を出してくれたスポンサーに送っているので高校界隈の飲食店で目にする可能性は高い。

「原稿、けっこう面白かったわよ。自転車で日本一周を目指した少年のことをよく思いついたわね。翔ちゃんが原稿を書いていたなんて知らなかった。学校で書いたの」

と奈美が訊ねてきた。

「そう、部室で」

本当は自宅だったが、そうは言わなかった。奈美が茶封筒から複写してきたものを取り出して拡げた。翔太の書いたページである。みたくもないものを突きつけられた感じだった。

「これ、誰かにみせたの」

というと、奈美がにっこりして

「さやちゃんにはね」

やっぱり。母娘は「共同体」だったんだと改めて思った。これで、またなにかとややこしくなる。妹のさやかは興味津々でこの原稿を読んだはず。翔太がなぜ自転車をテーマに選んだのかを訊いてくるだろう。それにいちいち答えていかないとさやかは納得しないので、そのへんが鬱陶しい。状況からすると祖母の君枝は先刻、目にしていると考えたほうがいいだろう。遅かれ早かれ、分かることだけれどもう少し家族に隠して置きたかった。

「おとうさんは知ってるの」

翔太が訊ねると奈美は首をかしげた。

「さあ、どうかしら。わたしは言っていないけれど。かりに知ったとしても、おとうさんはあまり関心を示さないんじゃないかな。ま、いまに始まったことではないけれどね」

父親の将司は家族の中でいつも置いてきぼりをくっている。

遅い食事がすんで、家族がそれぞれの時間を有効に使おうと居間から姿を消していく。奈美とさやかは自室へ。将司はテレビの前に陣取ってチューハイを飲みながらプロ野球中継を観る。根っからの巨人ファンだ。こういうときは何を話し掛けても上の空である。CMがはいったとき、翔太は自分の部屋に隠しておいた『不思議倶楽部』をもってきて将司の前に差し出した。

「ああ、例のものか」

驚いたふうもなくいってきたので意外だった。

「蕎麦屋の昭二から連絡があって店で読んだ」

やっぱり、そうか。

「これが、どうかしたのか」

将司は息子が苦心惨憺して書いた原稿よりも、佳境にはいったプロ野球の試合の行方のほうが気になるらしく、『不思議倶楽部』を突き返してきた。目がテレビ画面に釘づけになっている。

「まあ、部活、せいぜい頑張れよ。途中で辞めないようにな」

将司が無関心を装って他人事のような言い方をしてきた。翔太は父親の性格を知っているので

「うん。やれるだけやってみる」

答えた。



(二十) (二十一) (二十二)

(二十話) 「教頭の思惑」 

別に用事があったわけではないが、たまたま近くまできたので部室にはいったら『不思議倶楽部』顧問の児島教頭がいた。翔太はなんとなくこの教頭が苦手である。祖母の教え子ということもあり、意識しなければいいのだけれど、どうしても祖母を絡めてみてしまい、面と向かうとなぜか身構えてしまうのだ

児島教頭は『不思議倶楽部』のバックナンバーに目をとおしていた。翔太がそろりと部室にはいったときは仕切りのパーテーションで気がつかなかったが、すぐに人の気配を察知して顔を向けてきた。

「や、君か」

バックナンバーは開いたままである。

「あ、どうも」

翔太が緊張しながらぺこりと頭をさげて挨拶すると

「なんか用」

と教頭が訊いてきたので

「近くまできたので寄ってみたたけですから、いいんです」

そういって踵を返すと後ろから声が掛かった。

「もう帰るのかい」

「ええ」

というと

「時間ある。予定がなければちょっと話そうよ。いいだろう」

断る理由がみつからなかった。

「部活、慣れたかい」

入部して三か月。まだまだ駆け出し。全体のことがまだ把握しきれていない。

「覚えることが多くって」

翔太が正直に打ち明けると

「そうだよな。でも、焦ることはないよ」

児島教頭は穏やかな顔を向けてきた。

「自転車の原稿、初めてにしちゃまずまずの出来だったじゃないか」

「いや・・・」

翔太は顔を伏せて恥ずかしそうにしている。その姿を目の中にいれた児島教頭に閃きがはしった。今秋、部活の全国コンクールが予定されている。サークル誌を刊行している高校がその出来栄えを競う初めての大会で、『不思議倶楽部』もエントリーすることに決まった。このことはまだ部員の誰にもいっていない。大会では部員が活動状況などをスピーチすることになっている。審査員はバックナンバーと報告内容などを参考に審査して入選順位を決めていく。スピーチは部長の広瀬か、副部長の麻美を念頭に置いていたが、急きょ、翔太にしてみたらと思いが膨らんできた。

「じつは・・・」

そういってから、児島教頭ははたと軽率な行為に気が付いて自分を戒めた。まだ、報告する段階じゃない。もう少し、様子をみてからにしようと。

「いや、いいんだ」

自分の言葉がちぐはぐになっているのがおかしかった。

「君が広瀬君のサポートをしているって聞いているよ。この調子で部活を引っ張っていってね。麻美君なんかすごく期待しているんだから」

ホントかな。翔太は俄かには信じられなかった。

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(二十一話) 

麻美がポテトチップスを頬張りながら翔太に声を掛けてきた。

「きのうさ、シマとばったり出くわしちゃった」

シマとは児島教頭のことである。夏休みで、校内は閑散としているが、サークル誌『不思議倶楽部』秋季号の編集で部室は毎日、誰彼となく姿をみせていた。

「どこで」

翔太が訊ねると麻美の顔がみるみる好奇心で染まっていく。

「それがさ、なんとスーパーの地下よ。翔太も知っているでしょう、深夜営業しているあそこ。夜の九時過ぎだったかな、小腹が空いたのでお菓子を買いに行ったらレジのところに買い物かごをぶらさげてシマがぼうっとして並んでいたのよ。食パン、牛乳、たまねぎ、なす、キャベツ、マヨネーズ・・それと魚肉ソーセージもあったわね。少し離れた棚の陰からどんなものを買い込んでいるのか観察しちった。シマって童顔じゃない。なんか憎めないところがあるのよね。珍獣をみているみたいで笑っちゃった。シマは私に気がつかなかったけれど、ふふふ・・・」

児島教頭は小柄でぽっちゃりした体型。寸胴タイプといったらいいのか、体にメリハリがない。丸顔で黒い眼鏡を掛け、少年がそのまま大人になったような印象があり、よくいえばピュア、見方を変えればいかにも世間知らずのおじさんという感があり、一見したところでは若いのか、老いているのか分からない年齢不詳の雰囲気を漂わせている。

それでも、年相応に髪はかなり薄くなっていて、頭は抜け落ちた刷毛を乗せているように頭皮が透けてみえ、本人もそのへんは意識しているみたいで、残っている髪を寄せ集めてそれなりに整えてはいた。ときに、束にした髪がほつれたりすると時代劇にでてくる素浪人のようにざんばらになって顔に凄みがでてくる。自転車でやってくる児島教頭には駐輪場で決まって行う仕草がある。それは手鏡を取り出して髪の毛が乱れていないかを確認することだった。

翔太の父親である将司は髪こそあれ、年代的には児島教頭と同世代。スーパーで買い物をするのが好きで、賞味期限ぎりぎりの見切り品のタイムサービスを利用して値引きした生鮮食品を買うことに喜びを覚えている。

翔太は父親の姿を児島教頭に重ねていた。

「スーパーでかごを手に買い物をしたってどうということないじゃないですか。僕のオヤジだって楽しそうに、ウキウキしながらよくスーパーに出掛けていますよ」

将司は新聞の折り込みチラシをみるのが好きで、週末などに複数のスーパーが競ってチラシをいれていたりすると、それらを拡げて特売品の比較をしている。午前中に、あるいは夕方に限定した価格安の商品などに目をとめ、赤鉛筆でチェックしている表情は意外に真剣なもので趣味の領域を超えている。

「買い物が苦にならない、いや、買い物好きな男の人っているじゃないですか。児島先生もそうじゃないんですか」

翔太がそういうと、麻美は手をふりふりしながら否定する。

「たしかに、翔太のいうように、買い物が好きな男の人っているわよ。主婦感覚で予算通りの買い物が出来たとか、あるいは予算以下で済んだとか、思いも寄らぬ目玉商品をゲットしたとか。でも、シマってそういうことに一喜一憂するタイプじゃないの。うきうきしながら買い物をしているとはとても思えないわ」

どことなく麻美の眼差しが尖っている。

「そうですかね」

翔太は相槌を打ちながらも距離を置いた言い方をした。

「でも、人は見掛けによらないので児島先生も案外、楽しんで買い物をいているかも知れませんよ」

麻美は翔太の話などとんと訊いていない。


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(二十二話) 

「シマはさ、チョンガーだってこと、知ってる」

麻美が粘っこい目を向けてきた。児島教頭のニックネームである「シマ」は部室では友達感覚で飛び交っている。翔太はクラスメイトからそんな話を聞いた覚えがあるけど、教頭が独身だろうが、妻帯者だろが、どうでもいいことだった。

「誰かがそんなことをいっていたけど・・・」

というと、麻美の表情がぱっと輝いた。

「そう、シマってまじ独身なのよ」

タレントの芸能情報を独り占めしたような得意顔である。

「シマが自転車で学校にくるのを翔太は知っているよね」

「ええ、まあ・・・」

翔太も自転車通学なので何度か駐輪場で児島教頭と鉢合わせしたことがある。スーツにネクタイ、革靴、背中に臙脂色のリュックが定番だった。

「シマのリュックがやたらでかいのは買い物をして帰るからなの」

そういわれてみると、たしかに一回りサイズの大きなものだ。

麻美がワケ知り顔で続ける。

「もうひとつ、いいこと教えようか」

翔太の顔を覗き込むようにしていってきた。

「ここだけの話よ」

声のトーンがやや低くなる。

「シマってさ、時々、一人カラオケに行っているみたいなのよ。駅前にカラオケボックスがあるでしょう。あそこに」

そこは「カラオケビル」と呼ばれていて、週替わりでタイムサービスの懸垂幕が掛けられ、建物の前で客が待ち合わせをしている姿を翔太は何度か目撃している。

「広瀬君がさ、友達と一緒にカラオケに行ったときにシマが一人用のボックスから出てきたのを偶然みたんだって」

それが、どうした?教頭が一人カラオケに出入りしてなにか具合が悪いことでもあるの?といいたいところだったが、翔太は口をつぐんだ。それよりも、広瀬がカラオケ店に出入りしているというほうが翔太には意外だった。広瀬はサークル誌『不思議倶楽部』の部長で、生真面目な性格である。

「広瀬先輩はカラオケ好きなんですか」

翔太がこういうと麻美は笑いを含んだ顔をしながら

「ばっちし、大好き」

といって両手を拡げて輪をつくってみせた。

「私も広瀬君に何度か誘われて行ったわよ」

麻美もカラオケ好きだったのか。これも翔太の想定外のことである。

「へえっ、そうなんですか」

翔太の顔にいくつかの疑問符が浮いているのを感じ取った麻美が畳み掛けるようにいってきた。

「もちろん、部室のみんなとね。広瀬君と二人だけで行くわけないじゃない」

「そ、そうですよね」

翔太が慌てていった。

「でさ・・・」

麻美の関心は再び児島教頭に向けられた。

「シマ、慣れた感じだったというからあそこのカラオケ店の常連みたいよ。でもさ、シマがマイクをもって熱唱しているところなんてちょっと想像できないよね」

「たしかに」

堅物という鎧を背負っているような児島教頭の十八番の曲ってどんなものなのだろう。帰りは歌の余韻を味わいながら口笛でも吹いて軽快に自転車のペダルを漕いでいるのだろうか。

(二十三)(二十四)

(二十三話)

児島教頭は広瀬にカラオケ店で目撃されていたことを知らなかった。教頭がカラオケ店に通い初めてかれこれ二年になる。いまでは居心地のいい隠れ家といった感じで、抵抗なく入店している。なぜ、カラオケなのか?どうして一人なのか?と訊ねられてもどう答えていいのか。おそらく説明しても誰も分かっちゃくれないだろう。だったら黙っていればいい。敢えて人に話す必要はないと教頭は考えている。一人ボックスに立ち寄るのは歌うことが目的ではないのだ。

夏休みとあって午後二時過ぎに学校をあとにした児島教頭は気持ちが萎んでしまうような用件をすませ、そのあと書店で新刊の小説を二冊購入して自転車でいつものカラオケ店に向かった。すでに顔馴染になっているアルバイトの若い店員から「この時間帯は空いていますから、タイムサービスします」といわれ、ちょっと嬉しくなった。

カラオケボックスは日常を遮断してくれるので、教頭にとって唯一、落ち着ける場所でもある。混んでくる午後八時以降だと隣の部屋から薄い壁を隔てて曲と一緒にどんどんという地響きに似た雑音が聞こえてくるが、この時間帯、隣室はしん静まり返っていた。

おしぼりで襟首を拭う。エアコンがうねりをあげていろんな匂いの混じった冷風を送ってくる。児島教頭はテーブルの中央に置いてあるマイクと歌詞カードを隅に押しやり、リュックからファイルに収まった書類を取り出した。生徒の個人情報が記されている原本の写しである。持ち出しは禁止されていたが、きょうに限っては容認されてもいいだろう。生徒のひとりが家電量販店で万引きをして補導されたので警察に寄ってきたのだ。万引き、飲酒、喫煙・・・。夏休みに生徒が警察のやっかいになることはそう珍しいことではない。教頭という立場上、生徒が引き起こすトラブルを一手に引き受けていく。もう、慣れっこになってしまったとはいえ、なんで、こんなことまでしなければならないのか。教頭は雑用係りといってもいい。若い教員が管理職になりたくないという気持ちも分かる。

児島教頭は警察の担当者からいわれたことを頭の端に追いやると、教頭はリュックから分厚い茶封筒を取り出した。その中にはサークル誌『不思議倶楽部』の秋季号の資料がはいっている。顧問であることから折にふれて目を通す。秋季号の台割、どの部員がなにを担当するかが細かく記され、所々に手書きの挿入箇所があり、それをみていると部長の広瀬と副部長の麻美の顔が浮かび、やがて翔太が現れた。

高校生のサークル誌、紙に照準を当てた全国大会は十一月である。今年初めて『不思議倶楽部』はその大会にエントリーすることになった。まだ、部員には知らせていないが、来週になったら広瀬と麻美に経緯を説明しようと考えている。この大会には二十九校が参加。活動状況や、編集方針などをスピーチする。それを誰にさせるか。教頭の胸の内ではすでに決まっていた。翔太である。広瀬も麻美も人選に納得してくれるだろうと読んでいる。

児島教頭はマイクに見抜きもしなかった。歌が目的ではなく、隠れ場所として利用している客も少なからずいる。児島教頭はドリンクひとつ注文しないので費用は場所代だけである。

カラオケ店をでると通りにはネオンがついていた。陽が暮れても依然として暑い。店の軒先に駐輪していた自転車にまたがった児島教頭は何事もなかったようにペダルを漕いだ。向かう先はスーパー。外食はほとんどしないので基本、自炊である。今晩はなんにしようか、明日朝の献立、昼のお弁当のおかずなどが念頭にあったが、それとは別に、もうひとつ、最近、飼い始めた昆虫の食事のことも忘れてはいなかった。姿形からとかく敬遠されがちな昆虫だけれど、飼ってみるとけっこう面白いのである。



(二十四話)


その昆虫をじつは翔太の父親・将司も家族に内緒で飼うことになった。以前、勤めていた会社で同僚だった酒井の勧めだった。二人は在職中からなにかとウマが合い、互いに職場を去ってからも時々、思い出したように連絡をとり合って居酒屋で情報交換している。酒井は現在、殺虫剤メーカーで嘱託として働いている。仕事柄、昆虫や害虫などに詳しくなり、「虫から抽出したエキスは滋養強壮の効果がありそれを混合した清涼飲料水を売り出したい。タイアップしてくれるスポンサーがみつかれば、いますぐにでも勤務先を退社して独立したい」と将司に熱っぽく話すのだった。

果たして、その昆虫を粉末にしたものに滋養強壮の成分があるのか。たしかに見た目、口に含んだら苦い感じはする。その苦味が滋養強壮と結びつくのか。研究分析は出来ているのか。疑問だらけで訊きたいことはたくさんあったけれど、それらを質問していたったら、酒井は得意満面で延々と話し込んでくるだろう。そういう展開になるのが予測できたので、余計なことは一切、口にしないほうが得策と判断した将司は「ええっ、そうなの、なるほどね」とどうとでも受け取れるような言葉を慎重に選んで話す。

もともと、酒井には山師的なところがあり、話は気宇壮大に拡がっていく。「世界的な食糧難の時代はすぐそこまでやってきていている。これからは昆虫・害虫ビジネスが脚光を浴びる。その先手を打って事業を興したい」と喋りまくるのだった。将司は眉に唾をつけて聞いている。酒井は将司を共同経営者として迎えたいようだが、優柔不断のかつての同僚もさすがにこの話には乗るわけにはいかないので、話の接ぎ穂に「僕には荷が重いので」とやんわりと断りをいれていく。酒井は将司の性格を知っていて「そういわずに考えみてよ」となかなか諦めてくれない。「いま勤めているスーパーは時給のパートだろう。仕事がきついうえに給与は安い。それじゃ割に合わないだろう。辞めちゃえよ」といったあと、陥落するようでなかなか落ちない難攻不落の将司に次の手を打ってくる。「じゃあ、昆虫をしばらく飼ってみてよ。そうすれば情が沸くから。その上でまた話そうじゃないか」というのだ。有無を言わせぬ強引さがあった。

将司は難色を示したが、後日、居酒屋で会ったときには酒井は顔に満面な笑みを浮かべて手に虫かごをぶら下げていた。風呂敷に包んであるので中はみえないが、布を通して生き物の微かな息遣いが聞こえてくる。その風呂敷包みを無理やり手渡され「ここで開けるわけにはいかないので、家に帰ってから拡げて」といった。感触から虫かごは竹ひごで出来たものではなく、目の細かい金網製のものであることが分かる。その虫かごを床に置いて将司は酒井と飲んだ。

風呂敷包みを解いたのは自宅の最寄り駅のトイレの中である。便座に座ってゆるゆると結び目をほどいていくと、金属かごの中に黒い背をみせた艶のある昆虫が複数へばりついていた。人間の皮膚に黒い斑点ができているようにみえて気持ちが悪い。金属かごを揺らすと、昆虫はパニックに陥ったように飛び跳ねる。かごには飼い方を記したメモが貼り付けてあり餌や水の配分などが書かれている。昆虫の動転した様子を目にしながらそのうち処分すればいいと将司は判断し、トイレを出てから駅のまだ開いている売店で紙袋を購入して、その中に風呂敷包みを押し込んで自宅に向かった。

その昆虫は一般ウケはしない。嫌われることはあっても歓迎されことはないだろう。家族に話せば猛反対されることは目に見えている。となると、保管場所は家族の目の届かないところがいい。とりあえず庭先の収納ボックスにしようと将司は決めた。そこには日曜大工用品などがはいっていて、ふだんはまず開けることがない。軒先にある翔太の自転車の先にある収納ボックスに虫かごのはいっている紙袋をいれると、なにごともなかったように将司は玄関のドアを開けた。

「ただいまー」

居間にいた家族は、といっても妻と娘の二人だけれど将司のほうにちらりと目を向けたが、言葉を投げてこようとはしない。将司の存在はこの女性たちのあいだでは希薄なのである。息子の翔太は父親寄りでけっこう話し掛けてするが、その息子は部活が忙しくてまだ帰ってきていなかった。

(二十五) (二十六) (二十七)

(二十五) 昆虫は家族に内緒で・・


昆虫は庭先の収納ボックスの中でひっそりと過ごしている。軒下には翔太と奈美の自転車が置いてあり、収納ボックスはその向こうにあるので、居間からは自転車が障害物となって見えにくい。隠し場所としては無難なところだろう。

この昆虫は暑さに強く、逞しい生命力を有している。夜行性ということもあって薄暗い収納ボックスは住環境としては申し分ない。餌を与えていれば放っておいても生きているので飼育するほうとすればこれほど手間の掛からない昆虫もいないだろう。

食に関していえば限りなく貪欲で、雑食性というところも飼いやすい。将司が飼っている昆虫の好物はたまねぎとマヨネーズ。とくに、油で炒めたタマネギには目がなかった。果実もお気に入りだ。スイカ、メロン、ぶどう・・・。というと、けっこうグルメな感じがするが、この昆虫たちはどちらかというと人の食べ残したところや、料理に使わないで捨ててしまう部分を喜ぶ。悪食なことから残飯清掃屋というイメージが強いが、昆虫のプライドのためにもいうなら、断じてそうではない。黒い光沢、敏捷な動き、不気味な風体からとかく人から憎悪の対象にされているが、見た目によらずナイーブなところもある。

飼っていくうえでのポイントがいくつかあった。ひとつは餌をやり忘れないこと。空腹になると共食いする恐れがあるからだ。もうひとつが水は一日に最低一回は取り替えることである。水浴びが好きなことから新鮮な水を絶えず補給しておかないと、機嫌を損ねて嫌な匂いをまき散らすのだ。

将司は早朝と夜との二回、家族に内緒で収納ボックスの中をそっと覗いて昆虫の健康状態を確認しながら餌を与え、水を取り替える。そんな日がすでに十日以上も続いている。何事にも飽きやすく三日坊主の将司にしては珍しいことだった。

好きでもない昆虫なのにまたどうして?

そんな問い掛けをされても将司はうまく説明できないだろう。

「なんとなく」

おそらくこう答えるに違いない。

昆虫でも動物でもそうだけれど、飼い続けると親しみがわいてくるが、この昆虫に限ってはそういうことがないのだ。といって、虫かごから野に放つということもあまり気が進まない。殺虫スプレーで殲滅させてしまうのも憚れる。将司は知人から虫かごを押し付けられたとき、突き返すことができなかったという負い目があった。迷いを引き摺りながら飼っているというのが偽らざるところである。

昆虫に餌と水をやり終えて家にはいると、娘のさやかがパジャマ姿のまま怪訝そうに訊ねてきた。

「おとうさん、なにやってるの」

娘は母親と似て嗅覚が鋭い。

「ちょっと庭の植木に水を」

将司は出まかせをいった。

奈美は草花が好きでよく鉢植えを買ってくる。庭先にはそれらが雑然と並んでいる。

「お母さん、植木鉢を買ってくるのはいいけど手入れをしないだろう。忙しいみたいで、ほったらかしだもんな」

皮肉をいれてみたが、さやかには届いていなかった。

「気まぐれでなくてさ、鉢植えの世話をするんだったら毎日やってよ」

「わかったよ」

昆虫のことを察知されたら大騒ぎになることは目に見えている。父と娘の話し声が聞こえたのか、奈美が二階から欠伸をしながら降りてきた。

「朝からなにかあったの」

奈美がさやかと同じような目線を向けてきた。

「なんにも」

と将司はしらばっくれる。

「あなた、最近、朝、早いわよね」

「俺も年かな、早く目が覚めてしまうんだ」

時刻は五時半を過ぎたばかりである。


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(二十六) 将司の奇妙な行動 


翔太が父親の将司の妙な行動に気づいたのは、部活で遅くなった日のことである。自転車を軒下に停めていると、目の前にある収納ボックスから将司がぬっと姿を現した。翔太は暗がりの中で目を凝らした。
「誰・・・」
思わず息を飲んだ。
「だははは、俺、おれ、オヤジだよ」
将司のどうでもいい声がした。
「ったく、脅かすなよ」
翔太が口を尖らせる。
「酔狂なドロボーかと思ったんだろう」
「そんななんじゃねえよ」
将司は半ズボンにランニングという風呂上りスタイルでサンダルを履いている。その恰好自体は珍しくもなんともないが、小脇に二リットル入りのペットボトルと発砲スチロールの小皿を抱えていた。
「こんな時間にここでなにしてたの」
将司は息子の問い掛けには答えずに
「遅いじゃないか」
声がうわずっている。明らかに動揺していた。
この日、翔太は自転車でなく、電車を使って高校に出掛けた。翔太がサークル誌の編集作業で遅くなるのは今朝、将司にも伝えたはず。それを驚いたような顔をするのはおかしい。それよりも、ふだん、見向きもしない収納ボックスに出入りするのはどうみても奇妙な行動である。
「なにか必要なものでも探してたの」
「いや、なんでもない」
将司は都合の悪いことがあると言葉を濁す。
「ふーん」
といって翔太は引き下がった。母親の奈美や妹のさやかと違ってあれこれ詮索するのも面倒だったので、何も見なかったことにしてリュックを背負ったまま玄関のドアを開けた。
「たらいまー、腹ぺこぺこ」
スニーカーを玄関で脱ぎ捨ててドシドシと足音を響かせなから居間に向かう。テーブルで新聞を拡げていた母親の奈美が笑みを浮かべた。
「お帰り。頑張っているわね」
奈美は仕事、趣味、学業などに夢中で取り組んでいる姿が大好きだ。それが前向きの生き方に繋がってくると確信しているところがある。
「ごはん、それとも先にシャワーにする」
「シャワー」
夏場はほとんどこのスタイルだ。
「夕飯は翔ちゃんの好物のトンカツよ。すぐに揚げるから」
奈美はことのほか機嫌がよく、ふんふんと歌を口ずさんでいる。
シャワーを浴びながら、翔太は今日の出来事を振り返った。部活での会議、顧問である児島教頭の行動、そして、いましがたの狼狽した将司・・・それらが一枚の写真になって次々と現われてくる。
突然、猜疑心がむくむくと頭をもたげてきた。
「オヤジ、あの収納ボックスの中でなにかを飼っているのだろうか」
猫か、あるいは犬か。そうであれば、鳴き声がするはずだが聞こえてこない。そもそもこの暑い中、密室で生きものを飼うことは不可能。一体、どういうことなんだ。ペットボトルと小皿を抱えていた父親の姿が頭の中からなかなか消えなかった。


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(二十七)収納ボックスの中は異常なし

父親の将司は寝転びながらプロ野球ニュースを観ている。贔屓の巨人が終盤になって逆転したので勢いづいて飲んでいる。顔はテレビ画面のほうを向いているが酔いで目が泳いでいた。母親の奈美と妹のさやかの姿はない。奈美は仕事の資料に目を通さなければいけないと、将司にトンカツを食べさせると早々に自分の部屋に引き上げていった。さやかも英語の検定試験に向けて自室でテキストと向き合っている。

翔太は居間のテーブルにサークル誌『不思議倶楽部』の台割を拡げ、秋号で担当する6ページの原稿をどう書いていいのか取材ノートと資料とを見比べていた。テーマはまたも自転車。タイトルは「車輪を漕いで山登りのなぜ」。自転車で富士山などの山に登ろうとするマニアが増えてきたことを受けてのリポートである。車輪を漕いでの山岳登山第一人者にも話を聞いた。忙しい人なので取材を引き受けてくれることはめったにないのだが、高校生ということで興味をもったのかも知れない。意外にすんなりとOKしてくれた。

しかし、翔太はまったく別のことを目論んでいた。将司がプロ野球中継に釘づけになっているのを幸いに、収納ボックスの中を調べてみようと思い立ったのである。俊敏に行動しなければいけない。翔太はそろりと玄関を開けた。風がなく、秋が忍び寄っているというのにむっとした熱気がまとわりついてくる。

収納ボックスは自転車の前輪と向き合うような位置にある。万が一、将司が気づいて声を掛けられたら、まあ、それはないだろうが、もし、そういうことになったら「自転車の調子をみている」とかいって、その場を取り繕えばいい。

翔太は音を立てないで収納ボックスをそろりと開けた。明かりがないので中は真っ暗である。物事ひとつしない。日曜大工用品とモップの濃い影があり、足元にペンキやスプレー缶などが詰め込まれたダンボール箱がいくつか転がっているほかは、目新しいものは見つからなかった。

「なんにも変ったところはないじゃん」

ちょっとしたミステリーを期待していた翔太はちょっとがっくりした。

居間に戻ると、将司は腕枕をして横になっていた。目を閉じて軽い寝息を立てている。プロ野球のゲームは終了して、画面はバラエティー番組になっている。テレビの前までいってリモコンの電源を切ると、将司は翔太の足音で目を覚ました。

「なんだ、まだ起きていたのか」

大きなお世話だ。

「もうちょっとしたら寝る」

「部活、忙しくて大変だな」

将司が目をこすりながら訊ねてきた。

「あ、そう、そう。明日も学校に出掛けるからね」

「楽しそうだな」

頭をぽりぽり掻きながら将司がにやっとした。

「そうみえる」

「ああ。いいよな、翔太の年頃は」

将司はどこか遠いところをみるような目で呟いた。

「俺、もう寝るから。おやすみ」

息子が二階にあがっていったのを確認すると、将司は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水をグラスに注いで一気に飲み干し、やれやれと胸を撫で下ろした。将司は予防線を張っておいた。翔太がシャワーを浴びているとき、収納ボックスの中の虫かごを縁台の下に移動したのだ。それで、翔太に発見されずにすんだのである。もっとも、暗いので虫かごがあっても見つからなかったかも知れない。しかし、念には念を入れて、収納ボックスに消臭スプレーを振り掛けておいた。

「やっぱり、移しておいて正解だったな」

将司は胸の中で呟いた。

いまのところ事の成り行きを把握しているのは、物言わぬ、自転車だけということになる。



(二十八)(二十九)(三十)

(二十八)昆虫ビジネスを立ち上げる

今朝の献立は輪切りにしたキュウリとバナナの皮である。キュウリは皮の青い部分が隠れるほどマヨネーズをかけてある。餌に群がる昆虫をしばらく眺めていると、なぜか、むくむくと苛立ちが芽生えてきた。

将司はいまいましそうに呟く。

「おまえら、なに考えてんだ」

もちろん、彼らからの反応はない。虫かごを揺り動かすと、昆虫はパニックに陥ったように飛び跳ねるが、しばらくすると、何事もなかったかのように餌に寄ってくる。図太いというか、無神経なところが気持ちをいらつかせるのだ。将司は虫かごを無理やり押し付けてきた酒井と目の前の昆虫を重ね合せていた。

酒井とは以前の職場で机を並べていた。だた、それだけである。個人的な付き合いは一切、なかった。将司が辞める前に酒井はその職場を去っている。それがどうしたわけか、突然、酒井から連絡があって、ひさしぶりに会ったら虫かごを携えていた。

「昆虫ビジネスの会社を立ち上げる」

鼻の穴を膨らませてそういうのである。酒井には山師的なところがあった。昆虫ビジネスの共同パートナーにならないかとの誘いを掛けてきたが、あまりにも荒唐無稽な話に将司は笑ってしまった。

「昆虫を滋養強壮の食用として普及させると夢みたいなことをいっているけど、かりに、商品化したとしても売れるはずがないだろう。いくらなんでも共同パートナーにはなれないよ」

酒井は断れることは想定済みといわんばかりの不敵な笑みをみせた。

「とりあえず、この昆虫をちょっとのあいだでいいから預かってよ」

ここで、頑として断っていれば虫かごを自宅にもってくるようなことにはならなかっただろうが、酒井は将司の足元をみていた。海千山千の中で生きてきた酒井は話術も巧みで、断れられないようにやんわりと詰めていく。将司はいつの間にか虫かごを持たせられていた。

酒井とはその後、一度だけ電話で話し、会うことになった。

「昆虫、元気で育っているかい。僕の言う通りに飼っているんだろうね。愛情を持って育ててくれよ。なにしろ、お宝なんだからね」

「昆虫ビジネスかなんだか知らないけれど、いい加減にしてくれよ」

酒井は受話器の向こうで乾いた笑い声を発している。

「家族はなんていってる?」

いうもなにも、一切、打ち明けていない。

「まだ、内緒にしている。昆虫をみたら気絶してしまうだろうからな」

「家族の理解を得るために僕から説明しようか」

そんなことをしたら、話がますます複雑になってくる。

「それより、この昆虫を引き取ってくれないかな。正直、迷惑なんだよね」

将司がこういうと酒井はちょっと黙り込んでから

「まあ、電話ではなんだから近々、会おうよ」

そっけなくいってきた。

待ち合わせに指定されたのはいまではとんと見掛けなくなった「純喫茶」である。将司は虫かごを風呂敷で覆い、人目につかないように紙袋に入れてきた。時間になっても酒井の姿がみえなかったので携帯に連絡をいれると「渋滞でクルマが遅れちゃって。もうすぐ付くからしばらく待ってよ」といってきた。はて、酒井はクルマを運転するのか。たしか、免許はもっていないはずだが。タクシーでやってくるのだろうか。嫌な予感がむらむらと立ち昇ってくる。

コーヒーを追加注文したところで、酒井が自動ドアの向こうから見知らぬ男を連れて賑やかにやってきた。

「や、お待たせ」

テーブルにやってきた酒井は頬をぴくぴく震わせながら上機嫌だった。どことなく顔つき、物腰が昆虫に似てきた。

「あ、紹介するよ。この人、昆虫ビジネスの共同パートナーになった大学の先生」

「よろしく、あなたのお話は酒井さんからうかがっていますよ」

にたりと笑った顔は爬虫類である。

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(二十九)母親は電動アシストに買え替え

「翔ちゃん、お母さんのほうも磨いておいてよ」

翔太が自分の自転車を手入れしていると、母親の奈美が買い物袋を携えて自転車で帰ってきた。

「自分でやれば・・」

「また、そんなこといっている」

顔は笑っている。

「この自転車、どのぐらい乗っているかしらね」

奈美がぽつんと言った。

自宅には翔太と奈美の自転車が二台。翔太は通学に雨の日を除いて毎日、使っているが、奈美は気の向いたときに利用している。

「もう十年選手じゃない」

「いや、それ以上よ。翔ちゃんが小学校に入る前だったから」

翔太には母親の自転車がいつ自宅にやってきたのかはっきりと覚えていない。

「でも、まだまだ乗れるよ」

近いうちに電動アシストが届くことになっている。買え替えるのだ。

「新しい自転車だと坂道なんかはずっとラクになるわね」

たしかに、電動アシストだとペダルを漕ぐのが軽いので足の負担は軽減される。いまや、自転車の主流になっている。

「まあ、新しい自転車をせいぜい利用してよ」

奈美は春と秋には自宅から最寄り駅まで自転車を使っている。駅に隣接している駐輪場に置いて、それから電車で職場に向かう。

「翔ちゃんも電動アシストに乗ってもいいわよ」

もちろん、試乗させてもらうが、翔太は祖母から贈られたいまの自転車に満足しているので、通学に使うことはないだろう。

「秋は自転車日和よね」

奈美が誰にいうともなく呟いた。

「電動アシストが届いたらさ、お母さん、さやちゃんと一緒に公園にいってお弁当を食べようっと」

翔太の妹・さやかと奈美は年齢の離れた姉妹みたいに気心が合う。

「どうぞ、お好きなように」

秋は自転車がもっとも輝いているときかも知れない。郊外にサイクリングするのもよし、買い物や通勤、通学などにも足として使う機会も増える。翔太もその一人。図書館や友人に会うときもごく自然に自転車を利用している。

先日はサークル誌『不思議倶楽部』の取材で遠方まで自転車で出掛けた。不思議なもので、自転車に乗っていると、バスや電車とは違って、目線に拡がりがでてきていろんなものが複合的にとらえられてくる。早朝、車輪を走らせていると小鳥のさえずりが背中を押してくれるし、日中なら建設中のマンションがひと頃に比べて増えていることに気づく。経済が活力を取り戻したかどうかは知らないけれど、空き店舗だったところに新しい飲食店の暖簾が掛かっていたりして、ちょっとした発見があった。

「あ、そうそう」

奈美が思い出したように言う。

「お蕎麦屋さんのご主人から、翔ちゃん、部活、頑張っているみたいだねといわれたわよ。駅前で声を掛けられてね。『不思議倶楽部』を愛読しているみたいで、翔ちゃんのことを期待していたよ」

蕎麦屋「長寿庵」店主の昭二は翔太の父親、将司の友達だった。家族同士の付き合いというか、蕎麦といえばこの店だし、店主にしても翔太のことを幼いころから知っている。翔太はいまでこそ回数は減ったが、小学生のころはよく父親に連れられて暖簾をくぐった。

「この間、図書館でばったりおじさんに会ったら、翔太、おまえ、似合わないところにきてるんだなって笑われた。僕が図書館に行くなんてことは思ってもみなかったんだろうね。部活にはいってから少し変わってきたなともいってたよ」

出来が悪いといわれる息子であっても他人から褒められて嬉しくない母親はいない。

「そうよね、翔ちゃん、『不思議倶楽部』に参加してから、なんだか生き生きとしてるもの。おじさんの話を聞いて、お母さん、ちょっと感激しちゃった」

そういって奈美が息子の顔を覗き込んできた。

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(三十)部活を代表して全国大会でスピーチ 

「翔太、放課後、部室にくるように」

駐輪場でサークル誌『不思議倶楽部』顧問で教頭の児島先生に声を掛けられた。二人とも自転車で通っている。

「えっ、きょうですか」

これといった予定はないけれど・・・。

「都合が悪いか」

こういうときの児島先生は押しが強い。有無を言わせないところがある。

「いや、行きます」

「みんなに話があるから」

緊急の編集会議でもあるのだろうか。部長の広瀬と副部長の麻美とはよく顔を合わせているが、ほかの部員とは久しぶりに会う。

部室に行くと翔太が一番あとだった。テーブルの周りに見知った顔が並んでいる。広瀬は『不思議倶楽部』のバックナンバーを棚から引き抜いていた。麻美は鼻歌を口ずさみながら空になったペットボトルを指先で器用にくるくる回している。

児島先生は茶封筒を抱えてやってきた。髪が頭全体に行き渡っていることから来る前に手入れを施したのだろう。テーブルに着くと、茶封筒から印刷物を取り出してそれぞれの部員の前に差し出す。冒頭に大きなロゴで「高校生サークル誌・紙全国大会」とある。参加することは聞いていたので、部員たちにさほどの驚きはなかった。大方、概要の説明だろうと翔太は印刷物にちらりと目を向ける。

「きょう、集まってもらったのは手元にある資料をみてもらえれば分かるけれど、『不思議倶楽部』が全国大会にエントリーすることについてです」

創刊以来、初めての試みだけに児島教頭も気合がはいっている。新聞部では過去に何度か参加。「奨励賞」などを受賞した実績がある。同じ部活でもあちらは気位が高いのでサークル誌は眼中にない。『不思議倶楽部』が先にエントリーしたため新聞部は今回、参加を見送った。

「今年は全国32校が参加します。それぞれ伝統のあるところばかりなのでいい勉強になると思う。資料の中にも記されているように、部活の活動とサークル誌の編集方針などをスピーチしなければなりません」

翔太はぼんやりと児島先生の話を聞いていた。

「それを誰にやってもらうか」

児島先生は部員の顔をさっと見渡した。部長の広瀬しかいないだろう。翔太はそう思っていた。

「翔太にやってもらおうと考えている」

児島先生がこういったとき、小さな溜息がさざ波のように広がった。

「えっ、彼、まだ新入部員じゃん」

戸惑いの顔にそう書いてある。

児島先生に代わって広瀬が補足した。

「数日前に顧問から相談を受けたとき、スピーチするのは僕や麻美クンじゃなくて、翔太がいいのではないだろうかと提案しました」

ざわざわとさした波紋が拡がっていく。

広瀬が続ける。

「たしかに、翔太はまだ一年生。サークル誌のなんたるやも理解していないところがある。けれど、それでもいいのではないかと。正直なことをいえば、翔太が部活にはいったときは、大丈夫かと思った。それが、化けた。けっこう、いいセンスをもっている。おそらく他の高校では部長がスピーチを務めるだろう。しかし、まだ駆け出しの一年生の視点でとらえたサークル誌の現状と今後のあり方という話も面白いのではないかと。それで、麻美クンと相談して翔太を推薦しました」

翔太にとってはまさに青天の霹靂である。勝手に決めるなよと声をあげて言いたかった。




(三十一) (三十二)(三十三)

(三十一) 家族、馴染の蕎麦屋さんも知るところとなり

「翔ちゃん、今度、『不思議倶楽部』を代表して全国大会でスピーチするんだって」

奈美が嬉しそうに言う。

「えっ、そんな話、誰から聞いたの」

「おばあちゃんがいってたわよ」

発信源は元教師の祖母・君枝である。教頭の児島先生は教え子なのでおそらく、児島経由で情報を入手したのだろう。君枝は孫の部活顧問が児島先生と知って急接近している。それまではお互いに連絡を取り合っていなかったが、翔太の存在が結果的に二人を結びつけた形になっている。

「まだ、決まったわけじゃないよ。部長もいるし、副部長だっている。僕はまだ一年生なので出る幕じゃない。こういう話はとかく独り歩きするから軽々に口にしてほしくないな」

翔太は釘を刺した。

奈美がにこにこしている。

「隠さなくっていいのよ。もう、ばればれ。ぜーんぶ、分かっているの」

そういって、奈美は全国大会の用紙を差し出してくる。

「こんなものまで持ってんだ」

さすがにこれには驚いた。

「うん、おばあちゃんがFAXで送ってきたのよ」

いくら児島先生が祖母の教え子だからといってこれはやり過ぎじゃないのか。

「少しは孫の立場も考えてほしいよ」

翔太はうんざりしていた。

こういう話は黙っていても拡がっていくものである。奈美は夫の将司と娘のさやかに伝えると、これがどういうわけか蕎麦屋「長寿庵」店主の昭二おじさんまでが知っていた。帰り道、蕎麦屋の前を自転車で通るとおじさんに呼び止められた。

「翔太、今度、なんちゃら大会で演説するんだってな。たいしたもんだ。おじさんも鼻が高いよ」

おじさんはなかなか解放してくれない。

「そばでも食っていけ」

翔太は半ば強引に店内に引きずり込まれた。順子おばさんが笑いを浮かべて二人を見守っている。

「だってよ。翔太はまだ一年だろう。それなのに上級生を追い越して独り舞台に立つんだからな。なにかお祝いをしなくちゃ」

「あのね、誤解をしてもらっては困るけど、僕はただの代弁者なの。話の骨子は顧問の先生や部長が考えてくれるので、僕でなくたってよかったわけよ」

「でもさ、誰でもいいってわけにはいかねえだろうよ」

翔太は好物の冷やしたぬきを頬張りながら繰り返し、誤解をしないように説明していったが、おじさんはどこまで分かったのか。思い込みが強いので、一端、こうだと判断してしまうとそれを軌道修正するのは骨が折れた。

「おじさんも翔太の演説を訊きに行こうかな。いつだ、日にちは」

冗談ではない。それに会場には部外者は入れないだろう。そのへんは確認していないが。日程は決まっているが、口には出さないでおいた。

「まあ、いつでもいい。日にちを教えてくれよ」

おじさんはその気でいるのだ。

「でも、このお店があるでしょう」

つまらないことを口走ってしまったと、言ってから気が付いた。

「なあに、臨時休業にすればすむこった。どうってことねえよ。なあ・・・」

おじさんはそう言って順子おばさんのほうを振り向く。おばさんはなにも言わずにただにこにこしているだけだ。

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(三十二)なるようになれ、なんとかなるさ

「よろしく・・・」

翔太は自転車のハンドルをぽんと叩いた。

「緊張しているようだけど、なーに、なんとかなるさ。なんともならないことなんてまずないからね、大丈夫」

自転車はこう言って励ましてくれたように翔太には思えた。

「それにしても・・・」

数日前の光景が思い出される。スピーチ原稿をどうするか。翔太はサークル誌『不思議倶楽部』の部長である広瀬が草稿を書いてくれるとばかり考えていたが、アテが外れた。「自分の好きなように話せばいいんだから、原稿なんていらない」と突き放すように言ってきたのだ。副部長の麻美に泣きつくと彼女も「原稿棒読みのスピーチをしても心に届かない」とにべもない。顧問で教頭の児島先生は「われ関せず」の姿勢で付け入る余地がなかった。といって、原稿を用意しないでスピーチするほどの度胸もないので、翔太は自分なりの見解をまとめた。それを広瀬にみせると「いいんじゃないの、これで」とまるで他人事である。いや、そういうポーズをとっているだけかも知れないと、翔太は勝手に解釈した。

そして、日曜日の当日を迎えた。会場まではなんとか自転車で行ける距離なので、翔太は自転車を使うことにした。車輪を漕いでいるうちに、いい知恵が浮かぶのではないか。楽観的にそうみている部分もある。

「なるようになるっす」

自転車にまたがると、どこからかそんな声が聞こえてきた。

そこに、広瀬の呟きが重なってくる。

「あのね、バックナンバーと編集方針などを記したものは事前に事務局に届けてあるので、審査員は個々に目を通している。各校代表のスピーチはあくまでも形だけで、話の内容が順位に影響するなんてことはないから安心しな」

全国大会は参加三十二校によって競われる。開始は午前十時。翔太の高校は十二番目で、順番はあみだくじによって決められた。一校のスピーチ時間は十分と決められているので、ほんのさわりの部分しかアピールできない。そう考えて気楽に臨めばいいのだけれど、翔太にとっては初の晴れ舞台。檀上に立ったら緊張はピークに達するだろうことは容易に想像できる。

家を少し早目に出たので会場には開始三十分前に着いてしまった。まだ、誰もきていないだろうな。割り当てわれた控室に行くと、すでに、広瀬、麻美がいて、児島先生の顔もあった。

「遅いぞ、翔太」

広瀬が笑いながら言う。

それを受けて麻美は茶々を入れる。

「先輩たちよりあとからくるなんて、君はけっこう大物じゃん」

部員たちはめいめい勝手なことを口ずさんでいる。

「それはそうと・・・」

児島が難しい顔を向けてきた。

「昼、どうするんだ。弁当は出るんだろう」

なにを考えているかと思ったら昼食のことだった。朝ごはんを抜いてきたので腹が減っているのだ。

「事務局から幕の内弁当が支給されるっていってましたよ。ペットボトルのミネラルウオーター付きだそうです」

麻美がそう言うと、児島が仕切に首を振っている。なんらかの意思表示をしているときの癖だ。

「どっちかっていうと、のり弁当のほうがよかったな」

部員たちは笑いをかみ殺している。

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(三十三) 全国大会でまさかの「銅賞」に輝く 


翔太は懸念していたことがひとつあった。家族が会場にやってくるのではないかということだ。後方に椅子席が用意され、それがけっこうなスペースを割いているのだった。参加校の関係者たちのために設けられたものとは聞いているが、そこに翔太の祖母の君枝や母親の奈美がやってこないとも限らない。要注意は祖母だった。サークル誌・紙の全国大会に参加することが決まってから翔太は意図的に祖母と接触することを避けてきたけれど、祖母は教頭の児島先生と繋がっているので、油断ならない。

檀上にあがると一瞬、空気がとまった。視線がいっせいに翔太に向けられてくる。スピーチは三番目。観衆も選考委員たちもまだ緊張の糸がほぐれていない時間帯なので、会場はぴんと張りつめている。前列に陣取っているのが翔太の部活スタッフたちだ。顧問の児島先生は腕を組み、部長の広瀬がなにやらいいたそうな目を向けている。麻美はにこにこ顔。目を遠くにやると関係者席に祖母、奈美、蕎麦屋「長寿庵」の昭二おじさんがいた。

「やっぱり・・・」

胸の内で呟いて家族の姿をいったん横に押しやった。

スピーチはこれといった予行練習をしなかったのでぶっつけ本番だった。部活の活動状況を説明したあと、部員の横顔を自分なりに紹介していく。そこには顧問の児島先生も含まれている。個々の部員のエピソードなどを添えながら話した。ユーモアがあったせいか時折り、会場に笑いが起きた。奇をてらうことなく、飾りのない話が笑いを誘ったのだ。長いようで、あっという間の十分。翔太はどう筋道を立てて話したのか覚えていない。昭二おじさんが「V」サインを送っている。檀上から降りた途端、緊張の糸がほどけてどっと疲れを感じた。

仲間のいるところに戻ると、児島先生が肘で翔太の横腹を突いてきた。笑いをこらえた目をしている。

「僕の趣味がひとりカラオケだなんて、誰がいった」

麻美も口を尖らせてきた。

「そうよ、私のどこがミーハーなのよ」

それぞれの部員が忌憚のない感想を述べてくる。

広瀬がぽつりと言った。

「いや、よかったよ。部員の横顔をじつにうまくとらえていた。自分の言葉で話したのも好感がもてた」

部長の広瀬も好意的に受け取ってくれので、翔太は肩の荷を下ろしてぺットボトルの水をごくりと飲んだ。

広瀬が耳打ちしてくる。

「エピソードは事前に考えていたのか」

「即興で思いつくままに」

翔太が小声で答えると広瀬は納得したように続けた。

「そうだよな、シマは一人カラオケが好きだなんて、本題のスピーチからすればどうでもいいようなことだもんな」

シマというのは児島先生のニックネームである。

大会は粛々と進行していった。ただ、スピーチはカラオケと一緒で、最初のころに熱心に耳を傾けていた人も、そのうちに中だるみがでてきて、あとは、ほとんど訊いていないような状態になった。後半のおしまいのほうにスピーチする高校は気の毒としかいいようがない。

世の中、何が起こるか分からない。なんと『不思議倶楽部』が「銅賞」になったのだ。入選はおろか、順位としては泡沫に限りなく近いだろうと予想していたのだから驚いた。理由は「ユニークな発想で楽しみながらサークル誌に取り組んでいる」というものだった。そんな高尚な志をもってやっているわけではないのでむず痒い。ミーハーなだけで、なんでも面白がっているだけである。広瀬は静かにガッツポーズをとった。

自転車で帰宅中、翔太の目が涙で濡れていた。充足感に酔っていたのかも知れない。


(三十四) (三十五) (三十六)

(三十四)
「銅賞」を報じた新聞記事が高校の掲示板にデカデカと貼られ

部活の全国大会があった翌日の朝刊に大会の模様を伝えた記事が載った。四十行ほどの記事に写真が添えてある。「金賞」「銀賞」「銅賞」のほかに入選六校が記されていた。写真は「金賞」を獲得した高校の部活メンバーが肩を寄せ合って喜んでいる一コマ。「銅賞」の翔太のところは高校名と受賞理由が簡潔に記されていた。顧問で教頭の児島先生が「好奇心旺盛な部員たちの熱意が認められて嬉しい」とのコメントを寄せている。

高校ではさっそく掲示板に拡大した記事をデカデカと貼りだした。プライドの高い新聞部ですら全国大会で入選したことはないだけに、『不思議倶楽部』の「銅賞」は快挙といえるだろう。サークル誌の存在も知らなかった生徒もいるらしく、掲示板の前に足を止め「あっ、これこれ。ビックリしちゃった。まさか、うちの部活が銅賞になるなんてね」「朝、読んだわよ。この記事」「うちのお母さんなんか、朝から気味悪いほど機嫌がいいんだから」と女子が弾んだ声をあげていた。女生徒ほどまでに感情を露わにしない男子も「あ、読んだ」とか「新聞部は面目丸つぶれだよな」などと思いのままの感想を口ずさんでいた。

その日の昼休み、『不思議倶楽部』の部活スタッフ全員が校長室に呼ばれた。児島先生が校長に寄り添うようにして同席している。赤ら顔の校長はワイシャツから零れ落ちそうなお腹を突きだして「君たちの日頃の努力が実を結んだ。まずは、おめでとう。本校にとっても名誉なことであり、ほかの部活の励みになる。これからもいい誌面を作ってもらいたい」と激励する。

「銅賞」の賞状は部室に飾ることになった。大会の模様は三紙が取り上げた。記事に長短はあるが、広瀬はそれぞれの掲載紙を二十部ほど入手するようにと部員に命じ、翔太も新聞販売店に走り、事情を話して無料でわけてもらった。

部室にうず高く積まれた新聞の束を前にして広瀬がにやりとする。

「これで広告もとりやすくなったな」

麻美が頬を膨らませた。

「広告じゃありません。『不思議倶楽部』は商業誌ではないので、賛助会員といってください」

「悪い、わりい。訂正、賛助会員だった」

「そうよ」

二人は絶妙なコンビである。

「あ、それはそうと・・・」

広瀬が封筒を部員たちに突き出してきた。

「なに、それ」

部員たちは怪訝な顔をしている。

「シマがご褒美だって。金一封だよ。食事でもしろって。部活の参考資料を購入するとかは一切、考えずにぱあっと食って使えっていってた」

「いいとこ、あるじゃん」

二年生の部員がこう言うと、部員たちのあいだでニヤニヤした笑いが拡がっていく。

「何か、食べたいものがあるか。希望は」

広瀬が封筒をひらひらさせながら言う。金額から焼肉というわけにはいかない。マックではお釣りがあまり過ぎる。牛丼やお好み焼きではときめきがない。『不思議倶楽部』は食に関する記事をたびたび掲載しているが、いざ、自分たちが足を向けてみようとなると、ぴったりハマる店が見つからない。

「いいですか」

翔太が話の輪の中にはいってきた。

「蕎麦ってどうですか」

意外なアプローチに風向きが変わった。

広瀬が好奇の目を向けてくる。

「それ、いいかもな。いま、時期的には新そばだろう。翔太の蕎麦屋案にのった」

麻美も手をあげる。

「私も蕎麦屋、賛成」

部長と副部長の二人に押し切られる形で蕎麦屋で食事をするという流れになった。

「それはそうと、どこの蕎麦屋にするかだな。翔太、心当たりはあるのか」

翔太は幼い頃から知っている「長寿庵」を指名した。

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(三十五話)打ち上げは蕎麦屋で 


「本当かい。翔太、嬉しいよ」

「長寿庵」の昭二おじさんはいまにも涙をこぼさんばかりに喜んでくれた。昭二おじさんは翔太の父親・将司と幼友達。物心がついた頃から父親に連れていってもらっていたから、昭二おじさんは翔太をじつの「子供」のように可愛がってくれた。小学校時代、翔太がいじめの対象にされたときは親身になって学校側と掛け合ってくれたのもこの昭二おじさんだった。部活の全国大会には呼んだわけでもないのに会場に顔をみせた。「銅賞」になり部活が新聞に掲載されたことを純粋に喜んでくれている一人だ。掲載紙をまとめて購入したいがために駅の売店にまで足を向けたと翔太は父親から聞いている。

「その不思議なんちゃら、かんちゃらのメンバーって何人だ」

昭二おじさんはいまもって『不思議倶楽部』とは口にしない。正確な誌名をいくら教えてもその場では覚えているのだが、すぐに忘れてしまうので、自分の中ではいまもって「不思議なんちゃら、かんちゃら」なのである。

「七人」

翔太がこう言うと

「なんだ、たったそれだけか」

昭二おじさんは十人単位を想定していたらしい。

「こじんまりとしたものなので、畳の席のテーブルひとつで足りると思うよ」

「ぱあっとしないな」

「だって、部員は総勢七人しかいないんだから仕様がないよ」

翔太と昭二おじさんとの間には認識の開きがあった。部員の食事と考えている高校生と、慰労会と受け取っている店主。同じ新そばを食べるにしても品揃えが変わってくる。翔太はカツドンか、親子丼のついた蕎麦セットを思い浮かべているのに対し、昭二おじさんは単品の海老、アナゴ、野菜などの天ぷらのほかに、自家製の玉子焼きや蕎麦菓子、丼ものを想定していた。テーブルいっぱい並べようという魂胆である。

「あのね、僕らは高校生なの。お酒を飲むわけじゃないのでお腹がいっぱいになればいいんだから」

「全国大会で堂々の銅賞を獲った褒美とすれば侘しすぎねえか」

「そんなことないよ。おじさんのところのおいしい蕎麦にみんな満足すると思うよ。いっておくけど、僕らは高校生だからね。そのへんをくれぐれも忘れないで」

「あたぼうよ。分かってるわ、そんなこと」

食事会の司令塔となった翔太には念を押して置かなければならないことがもうひとつあった。

「予算のことだけど・・・」

児島先生から受けとった金一封は一万円である。これを七人で分けると一人当たり千五百円足らずである。となると蕎麦セットが妥当なところなのだ。

昭二おじさんは上の空で聞いている。

「ああ、分かった。翔太のいうことはもっともだ」

どこまで理解しているのか、翔太は昭二おじさんの性格、気性を知っているだけに願いどおりにしてくれるかどうか不安だった。おそらく、宴会料理が賑やかにテーブルに並べられるのだろう。しかも、おカネは受け取らない。そういうことをされては困るんだよねとぼんやりと考えていた。

その当日――。

「あのさ、広瀬部長から聞いたんだけど、これから行くお蕎麦屋さんのご主人て、全国大会の会場に来ていたんだって」

麻美が翔太に声を掛けてきた。

「みたいですね」

翔太はそっけなく答える。

「じゃあ、『不思議倶楽部』の事情にも詳しいわよね」

麻美は手にデパートの紙袋をぶら下げていた。店主への挨拶として持参したのだという。母親が持たせたと麻美は言った。

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(三十六)なせか、児島先生と祖母、父親までがやってきた


「何だこりゃ」

広瀬は間延びした声をあげた。蕎麦屋「長寿庵」には「貸切」の札が掛かっていたのだ。だし汁の匂いがほのかに暖簾を通して漂ってくる。

麻美が翔太のほうを振り向いた。

「・・・・・」

翔太はなにもいえなかった。悪い予感がする。引き戸をそろりと開けると、調理場で忙しなく手を動かしていた昭二おじさんが動きをとめ「いらっしゃい。待ってたよ」と笑顔を向けてきた。順子おばさんはテーブルを拭いている。畳の席の中央には長いテーブルが二脚あり、しかも「貸切」となっている。

「そのほうがいいだろう。ほかの客の目を気にしないですむのでゆっくり食事もできる。俺もこういう機会でもないと高校生のグループに会えないからな。だから、貸切にしたんだよ」

昭二おじさんはそう言って順子おばさんのほうに目を向けた。おばさんはにっこりと微笑んでいる。

「あれっ、こんなところに『不思議倶楽部』が置いてあるわ」

麻美が頓狂な声をあげた。昭二おじさんは翔太が部活にはいったときから、応援する意味でサークル誌の賛助会員になっている。

「知らなかった。ここ会員だったのね。ごめんなさい」

麻美はぺろりと舌を出し、紙袋を順子おばさんに差し出した。

「これ、うちのお母さんからです。受け取ってください」

「ご丁寧に。ありがとうございます」

順子おばさんが神妙な顔でこういう。

翔太の予測したとおり、料理は蕎麦セットではなかった。天ぷらや、卵焼き、カモ肉の燻製などが次々にでてくる。食い盛りの高校生にとってはお腹を満たされるということを知らないみたいに口にいれていく。部員の中には「白いごはんをください」というものまでいて、昭二おじさんも、順子おばさんも「作り甲斐がある」といって嬉しそうだった。昭二おじさんは「ビールがほしかったらいえ。俺が保護者代わりだから問題ない」と暗に未成年に飲酒を勧めるような発言をして、おばさんにきつくたしなめられた。

蕎麦が運ばれてくるころにはあらかたお腹はいっぱいで、だけど、食欲だけは衰えることを知らずに、蕎麦やをたいらげていく。

そのとき、意外な人物が三人暖簾を掻き分けてはいってきた。ひとりがシマこと、児島先生である。菓子袋持参でひょっこり現れた。もうひとりは翔太の祖母・君枝である。昭二おじさんと祖母とは顔馴染だった。

「先生、ご無沙汰してます」

昭二おじさんは子供のように大きな声で祖母に挨拶した。君枝はにこにこしながら、手土産を順子おばさんに差し出す。続いて姿をみせたのは翔太の父親・将司だった。

「ちわっ」

挨拶はこれだけだ。こちらは手ぶらである。よれよれのGパンに、てれてれのジャンパー。将司と児島先生は初対面だった。人見知りする児島先生はもじもじしてどこか落ち着かない。間にはいったのが君枝だった。

「私の息子、将司です」

将司がひとなつっこい顔をしてぺこんと頭をさげる。

「こちら、私の教え子の児島君」

児島先生は「生徒たちからシマとニックネームで呼ばれています」とへんな自己紹介をした。

「こういう機会でもないと、昭ちゃんにも会えないし、児島君とは最近、よく会っているけどね」

君枝が含み笑いを浮かべながら言った。 

(三十七) (三十八)

(三十七)  自転車だけが知っている

黒い羽織を背負った昆虫は晩秋を迎えても気力、活力とも衰えずに籠の中で飛び跳ねている。飼い主の将司は家族の目を恐れ、籠を転々と移動させながら隠し場所を見つからないように苦慮している。その甲斐あってか、いまだ、家族にその存在は知られていない。息子の翔太はなんとなく感じているところはあるようだが、昆虫の正体は知らないはず。翔太の部活顧問で教頭の児島も将司と同じ昆虫を飼っているという。

蕎麦屋『長寿庵』で初対面の二人が、ぎこちなさがなくなって場がなごんできたころ、趣味の話になり、最近、興味をもっている関心事に流れが移行した。

「じつは・・・」

昆虫のことを言いだしたのは将司のほうである。

「えっ、そうなんですか。なにを隠そう私も」

児島の目がぱっと輝いた。

「昆虫って動物とはまた違った愛情が芽生えてくる」

中高年のあいだでこの昆虫が密かなブームになっていると児島はいう。

将司は知人から押し付けられて嫌々ながら飼い始めたので、愛情の領域にまでは達していない。それどころか、飼っていること自体、家族には内緒だし、持て余し気味というというのがホンネである。

「家族には昆虫を飼っていることを伏せているので、存在を知られないようにするのに一苦労ですよ」

「なるほどね」

二人は日本酒をちびりちびりと飲んでいる。翔太を含めた高校生の部活グループは食事をおえるとさっさと引き揚げたので店内は閑散としている。カウンターで将司の母親・君枝が店主夫婦と談笑している。 

「この際、家族にいっちゃったらどうですか」

児島は盃の酒をぐいと煽りながらいってきた。

「家族が知ったら、それこそ殺虫剤を振り掛けられるのは目にみえています。それでなくても、僕は家の中では立場が弱いので」

「翔太君も知らないんですか」

将司が頷いた。

「でも、彼はけっこう勘がいいので、案外、知っているんじゃないですかね。ただ、口にはしないだけで」

「そうなると、また、面倒だな」

将司がこう言うと児島はにやにやして悪戯っぽい目を向けてきた。ほとんど楽しんでいるという顔だ。

「ものは考えようですよ。家族の誰も知らない秘密をもっているなんてけっこうスリリングで、これまた面白いじゃないですか。内緒を楽しんじゃえばいいんですよ」

「といってもね・・・」

将司は昆虫を処分しようと虫のはいった籠を自転車で公園の植え込みまで運んだことがある。だが、結局、捨てるにすてられないで持ち帰った。

「いや、自転車だけが知っています」

「自転車が・・・」

児島は怪訝そうな目を将司に向けてきた。

二人は「私はもう、ちょっとここにいる」という君枝を『長寿庵』に残して、連れだって店をあとにして駅のほうに歩いた。


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(三十八)昆虫を飼い始めた動機

十一月も下旬になると夜の寒さが応える。風がつめたい。ライトを点滅させた自転車が何台も二人の影を追い越していく。将司はコートの襟をたて児島に声を掛けた。

「ちょっと飲み足りないですね。もう一軒、行きましょうか」

「いいですね」

児島は誘いにのってきたが、将司には行きつけの店などない。どこにしようかと目は迷っている。一応、地元でもあるし、誘いを掛けた手前もあることから訳知り顔をしたものの、足取りはおぼつかない。

「どこでもいいですよ」

児島が助け舟をだしてくれる。

「といっても、チェーン店じゃあね」

いっている途中で将司の記憶に引っ掛かってきた店があった。

「たしか、その先の通りを右にまがってちょっと行ったところに赤ちょうちんがあったはずだが」

さて、そこがまだ暖簾を出しているかどうか。いまや、駅前は居酒屋チェーン店に席巻されているので、撤退している可能性が高い。

「とりあえず、行ってみましょうか」

その店は存在していた。いまではとんと見掛けなくなくなった縄暖簾である。引き戸を開けると喧騒が迎えてくれ、カウンターやテーブル席のあちこちから煙草の煙が立ち上っている。油で黒ずんでいる壁はどことなく温もりがあり、やきとりを焼く煙が店内に白い幕をつくっていた。

「いや、いや。こういう店はいまでは貴重になりましたね。いつまでも残っていて欲しいものです」

児島は雑然とした雰囲気にちょっと感動を覚えた。U字型のカウンターと四人掛けのテーブル席。客の入りは八分といったところで、二人は空いているテーブル席に腰をおろす。

手書きの短冊メニューが壁に下がっている。

「なに、飲みますか」

「熱燗でしょう」

酒はすぐやってきてお互いに頬をゆるめながら軽く乾杯をした。

「ところで、児島先生は・・・」

「あの、先生というのはよしてください。児島でも、ニックネームのシマでもいいですから」

「じゃあ、児島さんにしましょう」

将司は笑いながらこういって、「蕎麦屋での話の続きだけど・・・」といって昆虫に話題を切り替えた。

「児島さんはなぜ昆虫を」

「うまく説明できないけど、勘かな」

「勘?」

「たまたま昆虫専門店に行ったとき、その虫をみて一瞬にして惹き付けられたんですよ」

児島が楽しそうに言う。

「将司さんは」

「知人で昆虫ビジネスを考えている変わり者がいまして、将来の食糧難を想定し、昆虫が人類を救うと大真面目に考えているんです。それで昆虫を勧められて、嫌々ながら飼っているというのが正直なところですね。その彼から共同経営しないかと。その気はまったくありませんがね」

「ビジネスですか。こりゃまた壮大なスケールで」

児島ビジネスは酔いの染まった顔をくしゃくしゃにして笑った。

(三十九)電動アシストに乗った祖母

(三十九)電動アシストに乗った祖母 

軒下に二台の自転車が並んでいる。翔太が通学に使っている自転車と母親の奈美が通勤に利用している電動アシストである。四月、翔太の高校入学のお祝いに祖母の君枝がプレゼントしてくれた自転車は半年が過ぎ、車輪のフレームやサドルなどにツヤがなくなってきている。電動アシストは奈美が最寄の駅まで乗っていく。購入して間もないこともあって、電動アシストの注目度が高い。

驚いたことには祖母の君枝がペダルを漕いだことだった。「近くまできたから、ちょっと寄ってみた」という君枝は「あら、これが、電動アシストという自転車ね」といって、いきなり、サドルに跨ったのだ。君枝が自転車の乗るなんてことはイメージとして浮かばなかっただけに、奇異な感じがする。君枝は「なにいってるのよ。これでも若いときはよく自転車に乗っていたのよ」とさらりといってのけた。「将司は知っているでしょう」。息子の将司はもやもやした顔をしながらこっくりと頷いている。

教員をしていた君枝は学校に自転車で通っていたというのだ。「翔ちゃんの高校の児島君も自転車だっていうじゃない」。部活顧問で教頭の児島は雨の日でも合羽を着て自転車に乗ってくる。「へえっ、児島先生はおばあちゃんの真似をしているわけ」と妹のさやかが妙に感心していると、「違うわよ、彼はただ自転車が好きなだけ」と笑ってみせた。電動アシストで近所を一回りしてきた君枝は「これ、快適。軽いし、ちょっとした坂道でも楽よね。私も買っちゃうかな」といって、将司から「オフクロ、年を考えろ」とたしなめられ、「なにいってるの。足腰も頭もまだまだ健在」といって太腿を手のひらでぱんと叩く。もしかしたら、君枝は本当に電動アシストを購入するかも知れない。好奇心旺盛で、最近、踊りを始めたといっていたので、まさかが現実になることも考えられる。

電動アシストの登場でどことなく、話題からそれてしまった翔太の自転車だが、翔太はこの自転車が気に入っている。体の一部になっているというか、自転車は話し相手になってくれているような気がしているのだ。通学の途中や、近くの公園や図書館などに出掛けるとき、知らずしらずに自転車に語り掛けているとこがある。部活での悩みや、クラスメイトとの軋轢、葛藤などをストレートにぶつけられるのだった。それに、応えてくれるのがこの自転車なのだ。決まって「大丈夫、なんとかなるさ」「もうちょっと、前を向いてみよう」と背中を押してくれる。

といって、電動アシストを視野から遠ざけているわけではない。きちんとその存在は認めている。翔太は何度も電動アシストに乗っている。たしかに、祖母のいうように軽いし、快適である。坂道だってすいすいだ。しかし、それはそれ、これはこれ。やはり、通学には従来の自転車がいいと翔太は思っている。

思いのほか気に入っているのがさやかだった。ふだん、自転車には見向きもしない妹が、電動自転車に乗る機会が増えている。先日、駅に隣接されている駐輪場から出てきたところを目撃した。人違いだろうと目をこらしたら、間違いなく妹だったので、意外な感じを受けた。街で見掛ける自転車の多くが電動アシストに切り替わってきたような感じがする。数年前までは、物珍しく見ていたけれど、いまや日常の景色に溶け込んできた。それだけ、普及したということだろう。

「それはそうと・・・」と君枝が顔をあげて奈美とさやかに視線を投げ掛けてきた。「この家の女性は逞しいわね」。奈美は勤務先が推進している研修制度を使って会計士の資格を取得しようとチャレンジしているし、さやかは好きな英語を駆使できるような職に就きたいと、将来の設計図を描いて語学に磨きを掛けている。「それに比べると男は・・・」といって、将司と翔太を見比べる。孫の翔太はともかくとして、息子の将司がどうにも歯痒くて仕方がないのだ。「あなた、仕事のほうは大丈夫なんでしょうね」と念を押してくるので、またかよという顔をして将司は「まあ、なんとか」と小声で対応する。「奈美さんに感謝しなさいよ。私は男が働かなくちゃいけないという考えはもっていないけれど、家族の支えになるような存在でいてほしいのよ。経済的にということじゃなく、心の礎というのかな、おとうさんがいるという存在であってほしいのね」。激励なのか、戒めなのか、将司は「了解」と意味不明なことを呟いて薄笑いを浮かべた。父親は十分、家族の支えになっていると翔太は思う。優柔不断と見られがちだけれど、将司がいることで案外、家庭のバランスが保たれているのかも知れない。口にはしないが、翔太は将司を尊敬している。今年も残り少なくなってきた。来春に向けて家族のそれぞれが舵を切ろうとしている。


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