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  ショートストーリー  【自転車は風に乗って】短編小説 

 

1話 2話 3話 4話

「この小話は自転車である私が主人公です。そのとき、自転車は何を思い、どう感じたか。自転車に乗るその人と共感しながら人間模様を描いていきます」   

著者 「秋本宏」

プロフィール「新聞社の出版部門で週刊誌記者を経て、現在、フリーライター」

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第一話 『私は自転車。 いきなり の長距離試乗』    

これも巡り合わせなんでしょうね。「あのう、この自転車に乗ってもいいですか?そのへんをぐるぐる回ってきたいんです」。その人は顎に髭を蓄えた自転車屋さんの店主と少しだけ向き合って話をした後、顔を逸らしてショーウィンドーに置かれている私を指差しました。「えっ、なんで」。私の知る限りではこの店のお得意さんではないし、おそらく初めて訪れたのではないかしら。一見さん。にもかかわらず、ぐるぐる試乗したいと。図々しいというか、けっこう押しが強い。   

自転車で20分ほどの距離に自然の残る公園があります。「あそこまで行きたいんですけど」「ちょっと、遠すぎるなあ」。店主はそれまで浮かべていた笑顔を引っ込めました。豪放磊落そうにみえますが、意外に気が小さくて心配性のところがあります。乗り逃げされることを警戒していました。「まさか、盗まれるなんてことを考えてるんじゃ」。図星でした。「大丈夫ですよ。あははっ・・・」。ここまで言われて拒んだら面子に関わります。「いいよ。乗ってきなさい。この自転車のよさが分かるから」。店主は強張った表情を緩めながら度量の広いところをみせました。

その人の第一印象はけっこうインパクトがありましたね。打ち合わせのため取引先に出掛けたついでに、同じ沿線にあるこの自転車屋さんに立ち寄ったそうです。勤務時間中にこんなことやってもいいのかなとお叱りを受けそうですが、「息抜きも大切な仕事ですから」とけろっとしたものです。

自転車の乗り心地に満足したその人は、予定の時刻を大幅に遅れて公園から戻り、その場で購入。後日、お店の軽トラで自宅まで運んでもらうようにしました。店主の嬉しそうな顔ったらなかったですね。「俺はあんたが店にはいってきたときにピーンときた。いいものを見る目をもっているなって」。いまさら何を・・・。ちょっと、恥ずかしくないかい。

あっ、申し遅れました。私は自転車です。名の知られたメーカーのものではありません。街の小さな自転車屋さんが生み出したものといえばいいかな、パーツを自分で組み立てて作っていくんです。ウリはシンプルで軽いこと。これといった機能の付いていない私は飾りっ気がないことからよく「ヘンなの」といわれます。でも、すっぴんが気に入っているので、まったく動じません。まさにシンプル・イズ・ベストですよ。

その人が私に関心を寄せたのはスポーツ紙に紹介された小さな記事でした。写真が掲載され、それに目をとめてくれたんです。恵さんといいます。(次週に続く)

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第二話 『自転車は猫とよく似合う』    

猫と自転車と風――。部屋の本棚に置いてある写真のキャプションにはこう記されています。五分咲きの桜を背にして自転車の前で猫を抱いている恵さん。私もこのスナップ写真が気に入っています。まだ、寒かったころ、自宅の近くにある小さな公園で桜の木を見上げながら恵さんが自転車である私に「桜が咲いたら、ここで写真を撮りたい」と言葉を投げ掛けてきました。柔らかな日差し中で桜に溶け込んでいる自分の姿を思い浮かべていると、恵さんは「小太郎も一緒にね」といいました。

彼は白地に黒いぶちのはいった三毛猫です。空き地の中に捨てられていたのを恵さんが拾ってきました。それから一年ほど経っているので、人間でいえば何歳ぐらいになるのでしょう。猫は優れた演出家で、そこにいるだけで気持ちを和ませてくれます。自転車ともよく似合い、相性もいい。単に、猫好きだからそう思うのでしょうか。私は小太郎と知り合う前から自転車に寄り添う猫の姿をイメージしてきました。

私の居場所は玄関先です。小太郎は私の車輪やペダルに顔や体を押し付けてくるのが好きで、これもコミュニュケーションのひとつ。当初はちょっと戸惑いましたが、今ではそうされることが密かな楽しみになっています。私がこの家にやってきたとき、彼は異物を眺めるように、こわごわと遠目から様子をうかがっていましたが、好奇心には勝てなかったようで、そのうちにタイヤに爪を立てたりしてちょっかいを出すようになりました。

私と恵さんが外出先から帰ってくると、小太郎は100メートルも先からその気配を察知して、駆け寄ってきます。そして、恵さんの足元で仰向けになる。「どうしたのよ、小太郎」と声を掛けてやると、彼は嬉しくなって、ますます調子に乗って、ごろんごろんと体を動かします。恵さんは彼の白いお腹を撫でてあげます。うっとりとした目。なにを考えているのでしょうか。

桜の季節は入学、入社、転勤、引っ越しなどが重なり自転車が脚光を浴びるシーズンです。穏やかな日差しに誘われて自転車での外出も増えてきます。風に吹かれ、風と戯れ、風に言葉を投げ掛ける。この爽快感は何ものにも代えがたい。ふだん見過ごしていたちょっとした景色がとても新鮮です。日曜日の朝のこと。天気がいいので恵さんは距離にしておよそ二十キロ先の展示場まで自転車で出掛けるところでした。小太郎は恵さんが外出することを察知してまとわりついてきます。「留守番だよ」というとニャー、ニャーと鳴いて「連れていって」と目で訴えてくる。「後ろ髪を引かれるような気持だなあ」。恵さんは振り返ることなくペダルを漕ぎ始めました。 (次週に続く)

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第三話 『自転車がタウン誌の取材を受ける』 

自転車屋さんの店主の名前は「文彦」。それでみんなからフミさん、ブンちゃんと呼ばれています。彼の周りにはけっこう人が集まってきます。もしかして人望があるってこと?いや、いや、そういうことではありません。なんていったらいいのかな。いつも顔を突き合わせているとくたびれるけど、たまに会うと賑やかで楽しいタイプ。いるでしょう、そういう人って。時々、いたずらを仕掛けてくることがあります。

恵さんはメグちゃんです。職場でもそういわれているのでネーミングには違和感はありません。土曜日の朝、フミさんから電話がはいりました。「メグちゃん、昼前に来ない?どうせ暇してるんだろうから」。いわれてみればこれといった予定はありません。でも、頭ごなしに暇でしょうといわれると、勤め人のプライドとして少しむっときます。部屋の片づけもあるし、クリーニング屋さんに持っていくものもある。自転車である私をピカピカに磨くのも週末のささやかな楽しみ。「まあ、暇があるといえばあるし、ないとえばないですけどね」「なにごちゃごちゃいってんの。すぐ来いよ、待ってるから」。こう言ってフミさんは一方的に電話を切りました。フミさんが配慮に欠ける対応をするのは気心の知れたお友達だけですから、妙に気に入られていますね。

恵さんは行くとも、いかないともいわなかったのにすでに気持ちは動いていました。途中、ホームセンターに立ち寄って自転車に掛けるシートをもみたかったからです。思いも寄らなかったのはフミさんがタウン誌の取材を受けていたことでした。恵さんが自転車屋さんの入り口に立つと、テーブルを挟んでフミさんが小柄な記者と、小太りのカメラマンと向き合っていました。フミさんは「おおきた、きた。やっとこさ現われた」といって手のひらひらさせています。「この人がさっき話していたメグちゃん」。話していた?なんとなく嫌な感じがします。自転車である私にはピーンときました。

取材はあらかた終わったのでしょう。フミさんが茶目っ気たっぷりにペロリと舌を出しました。「自転車屋を始めたきっかっけとか、どうして組み立てなのかとか、しょうもない質問ばかりするんで、この記者を叱りつけてやったとこなのよ」。ちょっと風変わりな自転車が珍しいのか、フミさんはこれまでにいくつものメディアにり上げられています。「おんなじことをいわせるなっていうの」。記者がにこにこしています。おそらく、満足のいく取材ができたのでしょう。「それじゃ、表でお願いします」。カメラマンが恵さんに向かってぽつりと言いました。なになに、聞いてないぞ、そんなこと。ざわざわした予感が的中してしまったのです。「メグちゃんが自転車に乗っているところを撮るんだよ」。私と恵さんとのツーショット。フミさんが面白がっています。 (次週に続く)

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第四話 『自転車で寄り道して銭湯に』      

タウン誌が発行されたその週末。フミさんのところで遅い昼食をとることになりました。自転車好きが数人集まり、その中に恵さんがいます。私の兄弟、姉妹、親戚筋の自転車を片付けてスペースをこしらえ、そこに折り畳み式のテーブルを出しての食事。ま、お花見みたいなものですね。ドリンク、食べ物などは各自、持ち寄り。恵さんは自転車でやってきたのでアルコールを口にしません。幕の内弁当とミネラルウォーター、缶コーヒー。帰り、商店街の一角にある銭湯に浸かることを楽しみにしています。リュックにお風呂道具一式を詰め込んでました。下町の風情を残すその商店街は恵さんのお気に入りポイント。銭湯は自転車に乗っていて見つけたんです。路地もなかなか味わい深く、井戸が残されていたのには驚きました。

食事中の話題はもっぱらタウン誌の記事です。扱いはカラー見開き2ページ。恵さんが自転車に乗っている写真が大きく掲載されています。記事の反響は不思議なくらいありません。転勤先からこの春、本社に戻ってきたばかりのユウジさんが誌面の中でやや硬い表情をしている恵さんと、目の前でにこにこしている本人とを見比べています。「サプリや健康食品の広告でおじさんや、おばさんたちが快調、快便と笑顔を振りまいている写真があるでしょう。あのぐらいにリップサービスしてくれたらよかったのになあ」。バリバリのOL、サトミさんが異を挟みます。「自然体のほうが臨場感があっていいのよ」。フミさんが含み笑いを浮かべました。「メグちゃんてさ、目元あたりが魚のボラに似ていて愛嬌があるよ」。カズヤ君が面白がっています。「そういわれてみるとメグさん、ボラに似てなくもないですよね」。彼は社会人一年生。趣味は自転車と海釣り。一度、回転すしを一緒に食べたことがあります。恵さんはアジ、サバ、イワシ、サンマなどいわゆるヒカリものといわれている魚が好きなので、その皿ばかりを手にしていました。それを覚えていたようです。「青身の魚ばかり食べているから、ボラに似てきたんじゃないですか」「あははは・・・」。もう笑うしかありませんね。

恵さんはタイミングを見計らってフミさんのところをあとにして銭湯に向かいました。自転車である私と軽快にスイスイスイ・・・。暖簾を出したばかりの建物からお湯の軟らかい匂いがしてきます。ひとつの発見をしました。周りに私の仲間がけっこう駐輪されていることです。減少している公衆浴場。遠くから自転車でやってきたのでしょう。湯上りのほてった体を風にさらして走る自転車にはまた格別の爽快感があります。恵さんですか?脱衣場の鏡の前で目元を観察していました。「ボラに似ているかな」とぶつぶつ言って。次週に続く

5話 6話 7話 8話

第五話  『先輩の快気祝いに自転車をプレゼント』  

「結局、病気になったおおもとはストレスだったんだろうな。その点、メグはマイペースだし。鈍というか、とろいのであまり感じないから、病気にはならないよ」。恵さんの学生時代の先輩・キムラさんの口の悪さは相変わらずです。どうして、いつもひとこと多いのか。でも、久しぶりの悪態を耳にして少し安心しています。 キムラ先輩は退院後、しばらく自宅療養をして職場に復帰しました。「仕事より健康だよ。病気をしてそれがよく分かった」。いまは定時になるとさっさと退社するといいます。主治医からは栄養バランスのとれた食生活と、適度な運動を勧められているそうです。

住まいは九州の地方都市。「通勤はどうしているんですか?」。恵さんの頭の中には自転車がありました。「いや、クルマだけど。それが、どうしたの」「自転車にしたらいいじゃないですか。運動になって体にもいいし」「えっ、自転車で」。キムラ先輩は驚いたような声をあげました。地方は聞きしに勝るクルマ社会。通勤、買い物はもちろんのこと、道路ひとつ隔てた向こう側に行くときでさえクルマです。地方に運動不足の人が意外に多いのもこのへんに原因があるのでしょう。自転車をプレゼントしよう。キムラ先輩と話をしているうちに恵さんの気持ちは固まってきました。

自転車屋さんのフミさんにこのことを打ち明けると、なぜか、いまひとつ乗り気じゃありません。つい最近、お店によく顔をみせる一人が姪の中学入学祝いに自転車を贈ったところ、お気に召さなかったたようで、別の自転車を購入しました。そのことが引っ掛かっているみたいです。「メグちゃんの先輩って、うちの自転車を知らないんだろう」。そんなことをいっているから、売り上げが伸びないんですよ、と喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込んで、「心配ないですよ。先輩は私と感性が似ていますから」と恵さんはでまかせをいいました。実際はまったく似ていません。

そこへ、近くに住んでいる税理士夫人のタケコさんがふらりと顔をみせました。フミさんとは幼馴染。ブンちゃん、タケちゃんと呼び合う仲です。姉御肌のタケコさんは「プレゼントね。いい話じゃないの」と恵さんに加勢してくれます。「この自転車が気に入らなかったら、そんときは、そんとき。ブンちゃん、割り切って考えないといつまで経っても、ちんまりした自転車屋から抜け出せないわよ」。タケコさんの助言もあり自転車のパーツは梱包されて先輩のところに送られました。恵さんは自転車の出費で当分、昼は500円ランチで済ませることにしました。480円のカレーを頬張り、キムラ先輩がにんまりしながら自転車に乗っている姿を思い浮かべながら、なんとなく幸せな気分でいます。(次週に続く)

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第六話  『自転車通勤で五感を磨く』  

「どう乗り心地は?」。恵さんが自転車をキムラ先輩にプレゼントしてからしばらく経ちました。「いいね。カイチョー、快調」「それはよかった」。二人が電話で話している内容が自転車である私にも伝わってきます。「いま自転車通勤してるよ。医者がいうには自転車での運動は肥満防止にもなるし、なによりもペダルを漕ぐことで心肺機能が高められるので体にいいって」。雨が降っている日や天候の怪しい日はクルマなので毎日というわけじゃありません。キムラ先輩はやや小太り。「月のうち半分以上は自転車かな。痩せるところまではいってないけど、体が喜んでいるよ」

恵さんは何度か九州にあるキムラ先輩の自宅に遊びに行っています。最寄りの駅から勤務先がある街の中心部まで自転車でのんびり走って40分ぐらい。恵さんは前屈みになってペダルを漕いでいるキムラ先輩の出勤風景を目に浮かべました。

海辺に添ってJRと並行する形で伸びている幹線道路。両側にガードレールで仕切られた歩道が続いています。そこを一台の自転車がとろとろと走行してゆく。ほかに人影は見当りません。地方都市はクルマ王国。朝夕は通勤のクルマで路上は一本の紐になり、それが信号でばらけたり、固まったりしながら途切れることがなく繋がっています。目の端にはいってきた駅のホーム。キムラ先輩は電車を待つ通学、通勤客が意外に多いことに驚き、朝食を出しているドライブインの駐車場にいつも決まったナンバーの大型トラックが数台、止まっているのをみて「どんなメニューなんだろう」と想像をめぐらす。

「つまりさ」とキムラ先輩がいいます。「同じ景色でも自転車とクルマとは目線が違うし、クルマで見逃していたものが自転車だとみえくるのがいいね。海を渡ってくる風、潮騒の呟き、磯の匂いなどがとても新鮮に感じられる」。自転車愛好者としてはまだビギナーのはずなのに達観した口を利く。このへんが、いかにもキムラ先輩らしい。

出勤スタイルは綿パンにジャンパー、足はスニーカー、背中にリュック、頭には自転車専用のヘルメット。右足のズボンの裾はチェーンに巻き込まれたり、汚れてしまう場合を想定して裾バンドで固定。会社に着いたら着替えます。自転車はママチャリではないし、クロスバイクとも違う。シンプルな形が珍しいのでしょう。周りから好奇の目でみられています。「あげな自転車で会社まで通いよる」というわけです。キムラ先輩は自転車通勤の指南役になるほど知識だけは豊富になりました。「どうです。自転車で通勤してみたら。五感が磨かれますよ」。近所の人たちは「そげなこと、いわれても・・・」と戸惑っているようです。 (次週に続く)

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第七話  『車道はロードバイクとクロスバイクがびゅん、びゅん』  

会社まで自転車で行ってみようかな?。気持ちが動いたのは自転車通勤を始めたキムラ先輩に触発されたからではありません。前々から一度、やってみたかったんです。ほんの、遊び心といったところですね。猫の小太郎がふだんと異なる雰囲気を察知したのか「今日は平日だろう。なのに、朝からどうして自転車なんだ」という目をし、首をかしげて「大丈夫かよ」という仕草をしました。

まずは出掛けてみよう。車道を、風を切って走行している自転車のほとんどは舗装された道を速く走るロードバイクと、マウンテンバイクとロードバイクの中間にあたるクロスバイクです。これらの高速自転車は歩道をとろとろ走っているママチャリと呼ばれるシティーサイクルには見向きもしません。水を得たサカナのようにびゅん、びゅんと遠ざかっていく。車輪の小さなミニベロという自転車も目につきます。ベロはフランス語で自転車の意味。小径車とも呼ばれ、小回りが利くので最寄り駅まで利用する人が多い。自転車通勤は確実に増えていますね。スーツにリュックを背負った人たちも少なくありません。

陸橋のある十字路で恵さんは車道にでました。歩道がなくなっていたからです。後ろからタクシーに急き立てられ、手を伸ばせば届くぐらいの近距離を荷物の積んだトラックがスピードを緩めずに追い抜いていく。危ない、アブナイ。風圧でよろけでもしたらと思うと、ぞっとして身が竦んでしました。

実際に通勤してみると分かりますが、都市の道路は自転車に優しくありません。原則、車道を走ることになっている自転車。朝のラッシュ時に車道をすいすい走れるのはかなりの熟練者です。歩道にしても駅や勤務先などに向かう歩行者と接触しないように神経を配るので肩が凝る。自転車専用道路があればいいのだけれど、それがない。というか、ないことはないけれど数が少ない。国内に8500万台もの自転車があることを考えると、日本はどうみても自転車後進国ですよね。いろんなところで環境問題などが俎上にあがっているけれど、エコロジーの自転車については具体的な対策が遅々として進んでいません。これ、どういうことなの。

企業の本社や官公庁の建物が並ぶ中心部にやってきて、恵さんはしまったと舌打ちしました。歩道は通勤する人たちで溢れ、身動きが取れなくなってしまったのです。自転車を引いて移動することにしました。別のルートをとればよかったと悔やんでみたものの、すでに手遅れ。「邪魔」「歩道に乗り入れるなよ」。通行人たちの不躾で尖った視線を感じながら、恵さんも自転車である私も、ああ、まだまだ自転車通勤は認知されていないなあと、溜息をつきながら空を見上げました。 (次週に続く)

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第八話 『勤務先に置いてある一台のママチャリ』  

恵さんの勤務先は河口にあります。本社は街の中心部にあり、組織上は支社になっていますが、分室みたいなところといったらいいのかな。のんびりムードがあり、勿論、ガツガツした上昇志向タイプもいるけど、押し並べてどこか吹っ切れたような社員が多い。

会社に到着すると警備のコジマさんが目ざとく恵さんをみつけました。「あれ、今日は自転車なの」。みれば分かるじゃない。自転車専用のヘルメットを被っているのだから。「困るんだよね、自転車通勤は会社じゃ認めてないよ」。お堅いこというなかれ。コジマさんは四角四面に物事をとらえるタイプで、決まり事や規則に縛られることがけっこう好きです。よくいえば几帳面、別な見方をすれば融通が利かない。家庭ではどんな生活をしているのでしょう。余計なことだけれど、つい、そう思ってしまう。コジマさんは仕方ないなという顔をし「今日はいいけど、自転車通勤は禁止ですからね」と念を押してきました。

会社は製造業なので社屋の裏手にトラック専用の駐車場があります。マイカーや自転車は見掛けません。いや、一台、あった。ヨシロウさん所有のママチャリです。通勤でなく、昼休みに使うもので、恵さんは何度か駐車場から自転車で出掛ける姿を目にしたことがあります。食事なのか、散策なのか・・・。一旦、外出するとなかなか戻りません。ヨシロウさんは再三、警備陣から駐輪をしないよう警告されていますが、糠に釘です。コジマさんの苛立ちをよそにヨシロウさんは自分のスタンスを崩しません。おそらく、駐車場にママチャリを置いていることに対し、目くじらを立てるようなことではないと考えているのでしょう。

ヨシロウさんは定年をすぐそこに控えた分室勤務の長い人です。シャイで無口。話し掛けても「うん」「まあ」「ええ」ぐらいしか返ってきません。そのため、誤解されることも多いんです。ドラマは昼に起こりました。社員食堂ではなく、久しぶりに外で食事をしよう。恵さんは同僚たちとつるんで社屋を出ました。駐車場の前を通り掛かったときです。ヨシロウさんが恵さんの自転車をしげしげと眺め、ハンドル、サドルとフレームを繋ぐシートポスト、タイヤなどに手を伸ばし、自転車を持ち上げて重さを量っていました。いろんなところに触れてくるので自転車の私もなんだかくすぐったかったのですが、パーツや部品のことを知っている扱いです。恵さんは同僚の輪から離れて、ヨシロウさんのところに駆け寄りました。「それ、私の自転車。今日、通勤したんです」というと、ヨシロウさんが頬を緩めて「な、自転車、いいだろう」といいました。「組み立て式の自転車で、軽いし、けっこう、いいですよ」というと、「これ、いくら。どこで売っているの」と恥ずかしそうに尋ねてきました。 (次週に続く)

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9話 10話 11話 12話

第九話   『自転車を購入しなかったワケ』

自転車が縁で恵さんとヨシロウさんとの距離が縮まってきました。社内の喫茶ルームで、テーブルを挟んで二人が向かい合っています。「自転車屋さんに行ったみたいですね。ひとこと言ってくれたらよかったのに」。コーヒーを飲みながら恵さんの言い方がやや詰問調になっていました。「ああ、うん」。言葉少なに頷くヨシロウさん。部下が要領を得ない上司を叱っているみたいな構図ですね。「店主はフミさんというんですけど、なんの音沙汰もないので気にしてましよ」。購入するかどうかは別にして、買う素振りをみせながらフミさんに連絡をいれないは失礼じゃないかと恵さんはいっているわけです。ヨシロウさんが頭を掻きながら「今日中に電話をいれておくよ」と侘びてから、「君の乗っているあの自転車さ、俺には似合わないよ。だって、いまふうの作りだし、それに若い人向きだろう。ちょっとな・・・」。乗るのが恥ずかしというということか。自転車をファッションとして捕えているからそういう見方になるわけで、機能性という視点からみたら、車体は軽いし、とても便利です。「私の乗っている自転車に限っていえば年齢層はあまり関係ないですね」。恵さんはフミさんのところの自転車を楽しんでいるシニア夫婦を何組か知っています。「自転車も好みですから、自分にあうのを選ぶのがベストですよ」。

結局、ヨシロウさんは自転車を購入しないことにしたようです。好みの問題のほかに、恵さんはもうひとつ、別の理由があるような気がしました。フミさんのところの雰囲気に当てられたというか、スタッフではないけれど、若い人たちが遊びにきていて、フレンドリーな感触に違和感のようなものを覚え、加えて、店主の独善的なものいいに引いてしまったのではないでしょうか。ヨシロウさんがはにかんだような顔を恵さんに向けてきました。「あの自転車屋のオヤジ、ちょっと変わっているよな」。

恵さんは先週末、自転車屋さんに立ち寄って、ヨシロウさんが訪れたことを知りました。フミさんが「そう、そう。この前、不思議な人がきたよ」といってニヤニヤしながら「一見さんだったので、ネットか、それとも印刷物をみたのか、誰かの紹介でやってきたのかを聞いたんだけれど、はっきりしたことをいわない」。その代わり、自転車の知識だけは詳しかったといいます。「車体が軽量なので安全性に問題はないか、パーツはどこで作っているのか、素材はなにかとかネチネチと訊ねてくる。俺、しつこいのは苦手だろう。タケを割ったような性格だからさ」。後ろのほうは蛇足ですよ。

フミさんはこれまで新聞、雑誌などに掲載され記事をまとめたスクラップブックを差し出して「細かいことはここに書いてあるから」というと、その人はページをめくり始め、タウン誌に掲載された記事に目をとめ「こいつ、知ってる」と叫んだそうです。ヨシロウさんも最初から恵さんのことをフミさんにいえば話がみえてきたのに、そういうことを省いてしまう。こんなところが誤解されやすい一面なんですね。 (次週に続く)

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第十話 『ママチャリ・ヨシロウさんの謎』 

この際、聞いちゃおうかな。恵さんはヨシロウさんについて前々から気になっていたことがあります。ひとつは、なぜ、自転車に詳しいのか。もうひとつは、どうして駐車場に駐輪しているのか。「ひとつ、いいですか?」。聞こえているのか、いないのか。ヨシロウさんは眠そうな目を恵さんに向けてきました。恵さんが間髪を入れずに訊ねます。「自転車に詳しいようですが・・・」「そうでもないよ」。ここで、引き下がっては答えを引き出せません。踏み込んで質問をしました。「自転車に夢中になっていた時期があったとか、自転車のある環境にいたとか」。すると、ヨシロウさんの表情がにわかに覇気を帯びてきました。

「実家が米屋だったので、子供のころはよく自転車で配達を手伝わされたよ。そのおかげで、知らず、しらずのうちに自転車の知識を身に着けたんだろう」。昔、お米屋さんで使っていた自転車は荷台のついた頑丈で重たい業務用自転車でした。1955年頃に売り出された「威力号」は車体が黒一色だったので「カラス」とも呼ばれていました。「ギャM号」という自転車もありました。「俺たちが小さいころ、自転車は高価なものだったのよ。子供用自転車など買って貰えないので、配達用の自転車を三角乗りで漕いでいたな」。三角乗りとは子供たちが大人の自転車に乗るためにあみだした方法。サドルに座ると足が届かないため、フレームの中に足を入れてペダルを漕ぐ。「そんな乗り方をして遊んでいたので、自転車に興味をもち、詳しくなっていったんだろうな」とヨシロウさんは説明してくれました。「お米屋さんは?」と訊ねると「廃業したのはオヤジが亡くなってからだから、もう三十年になるな」。そういうことだったのか。

さて、次の質問です。「どうして、自転車を会社の駐車場に駐輪しているんですか?」。恵さんにとってこれが最大の謎ですが、ヨシロウさんは、そのことかという表情をしながら、苦笑いを浮かべました。「あの病院、知ってるだろう」。遠方から患者がやってくる専門病院です。「女房があそこ入院してんだよ。着替えなんかをもっていかないといけないだろう。それで昼休み、食事のついでに病院まで自転車で出掛けていくわけだ」。恵さんは何度か紙袋を荷台に括りつけて自転車に乗っているヨシロウさんを見掛けたことがあります。「3年ほど前から入退院を繰り返しているよ。まあ、仕方ないさ」。他人事のようにヨシロウさんはいいます。ヨシロウさんには一男一女の二人の子供がいます。それぞれ独立しているので、現在、夫人と二人暮らし。長男は独身ですが、長女は結婚しています。夕方になると子供が手分けして交代で病院に顔をみせているそうです。

こういうとき、どういう言葉を掛けてやるのが相応しいのだろう。「大変ですね」ではいかにも無粋。「早くよくなるといいですね」といった社交辞令では相手に気持ちが届かないだろう。結局、恵さんは「そうだったんですか」というにとどめて口をつぐみました。「気にしない、気にしない」。ヨシロウさんは笑いを浮かべながらこういいました。 (次週に続く)

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第十一話 『自転車を押しながら蕎麦屋と純喫茶へ』 

「外で食事でもしようか」。ヨシロウさんが恵さんを誘ってきました。ママチャリを押しながらヨシロウさんのあとを付いていく。どこに行くのかはいいません。連れていかれたのは通りの辻から一本奥に入ったところにある蕎麦屋さんでした。こんなところにあったけと思わせるような目立たない店で、暖簾はでているものの、客は疎ら。店は老夫婦だけでやっていて、店内はやや薄暗く清潔感もいまひとつ。なによりも活気がありません。

店主は手を休めて調理場から壁に掛かっているテレビに目を向けています。女将さんがいそいそとお茶を運んできました。客は常連ばかりで気心が知れているようで「俺、いつものやつ」とヨシロウさんは言いました。手垢でよれよれになったメニューを開くと真っ先に書いてあるのが「そばセット」。それに続いて単品が並んでいます。「この、セットはなんですか」。恵さんが訊ねると女将さんはにこりともしないで「かけそばか、もりそばにごはんとおしんこがつくの。きょうは五目ごはん。日替わりでカレーのときもあれば、親子丼の日もある。ええ、ごはんはお茶碗一杯ぐらいで少ない」。恵さんはセットメニューを注文しました。ヨシロウさんの定番はもりそばです。おぼんに乗って運ばれてきたものをみて、恵さんは驚きました。量はちっとも少な目ではなかったのです。しかも、そばはふやけていて、汁はかなり濃く、五目ごはんも水加減を誤ったかと思うほどべちゃべちゃしていました。ヨシロウさんは一言も喋らず、黙々とそばを食べます。話す糸口をつかめないまま恵さんは急いでセットメニューをたいらげます。店を出るとヨシロウさんが満足げにいいました。「どうだ、けっこう、うまかっただろう」。どう答えていいのか分かりません。おいしくなかったとはいえないので、恵さんは「ええ、まあ」と当たり障りのない言い方をしました。

蕎麦屋さんをあとにすると、ヨシロウさんは腕時計に目をやり「ちょっと、お茶でも飲んでいくか」と、今度は喫茶店への誘いが掛かりました。はい、はい、スタバでもドトールでもどちらでもいいですよ。自転車を押しながら連れていかれたのはいまどき珍しい純喫茶。自転車を店頭の植え込みに駐輪したので「いいんですか、こんなところにとめて」というと「大丈夫」とさして気に止めるふうではありません。ここも常連で固められているのでしょう。白髪のマスターが客と話し込んでいます。娘さんでしょうか、マスターと顔立ちの似ている女性が愛想ひとついうわけでもなく、気だるそうにメニューを差し出してきました。「俺、いつものやつ」。ヨシロウさんはここでも定番のものがあるらしい。「なんですか、それ」と訊ねると「ああ、ホットコーヒーだよ」というので、恵さんも同じものにしましたが、コーヒーはぬるく、粉っぽかったのでアイスコーヒーにしておけばよかったと悔やみました。ヨシロウさんは「ここのコーヒー、けっこううまいだろう。味が濃いし、香りもいいよな。たまにくるけど気に入ってるんだ」と楽しそうにいいます。 (次週に続く)

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第十二話 『垣根を取り払った自転車』 

ヨシロウさんはコーヒーを飲みながら、新聞に目を通しています。恵さんは脳裏にあることが点滅しました。ママチャリを会社の駐車場に駐輪していることです。「自転車ですけど、入院している奥さんの看病のために使用していると会社に申し出れば、特例として駐輪が認められるんじゃないですか」。恵さんはいってから、また、余計なことを喋ってしまったと軽い自己嫌悪に陥りました。一瞬、空気がぴたりと止まったかのような沈黙がやってきましたが、それを追い払ったのはヨシロウさんでした。「マスター、煙草ある」。えっ、煙草を吸うんだ。初めて知りました。「会社や自宅では吸わないけどね。ここにきたときには一服している」。ヨシロウさんはニヤリとして悪戯小僧のような顔をみせました。煙草は店にキープしてあり、マスターが棚からはハイライトと使い捨てライターをもってきます。

「煙草を携帯していると、つい、吸ってしまうだろう。やめようとはしているんだけど、これがなかなか・・・」。ヨシロウさんはうまそうに紫煙を吐きながら「駐輪の件だけれど、本社では知ってるのがいるよ」。

恵さんとヨシロウさんの勤務先は本社からそう遠くないところにある支社。社員のあいだでは分室と呼ばれています。「誰ですか、知っている人って?」「君はヒラトリのタナカを知ってるよな」。総務統括部長で取締役のタナカさんのことです。社内人事にやたら詳しく、根回しが大好きで押しも強い。恵さんのもっとも苦手とするタイプです。顎に顔の埋まったでっぷりと太っているタナカ総務のテカテカと脂ぎった顔が浮かびました。恵さんが人事部に在籍していたときの直属の上司で「俺は全社員の顔を覚えている。誰がどの学校を出たのかまでそらんじている」というのが自慢のひとつでした。会社組織の中で出世していくのは人望や人柄だけではないんですね。「あいつ、俺の同期なんだ。出世頭だよ」。そうだったのか。知らなかった。「彼には知らせてあるよ。女房のことも含めてな」「だったら問題ないじゃないですか」と恵さんがいうと、ヨシロウさんはきょとんとした顔をしました。「別に駐輪していることは問題になってないだろう」。

たしかに、そういわれてみたらそうです。警備のほうだけが神経を尖らせているだけに過ぎません。「警備がごちゃごちゃいってくるだけで、会社からは俺のほうに何も言ってこないよ」。割り勘でコーヒー代を払って路上にでると、ママチャリの前輪がひねくれたように曲がっていて「遅かったじゃないの」と不満をたれているようにもみえました。「俺、これから病院に行くのでちょっと遅れるから」。ヨシロウさんは自転車にまたがり、思い出したようにいってきました。「女房のこと、別に隠しているわけじゃないけど、みんなには黙っておいてくれないかな」。恵さんは両腕を掲げて丸をつくり「了解」のサインを出します。「そんじゃ、ひとっぱしり行ってくる」。もちろん、奥さんが入院していることは誰にもいっていません。人見知りの激しいヨシロウさんと言葉を交わすことができるようになったのを恵さんは嬉しく感じていました。二人の垣根を取り払ったのは自転車です。 (次週に続く)

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第十三話   『ない、ない、ない。自転車が消えちゃった』  

明と暗。恵さんも自転車である私にしても午前と午後とでこれほど振幅の激しかったのは最近、ありませんでした。この日、恵さんは休日出勤の振り替えで、ウイークデーに休みをとりました。天候は晴れ、恰好の洗濯日和。久しぶりに朝寝坊を決め込んだのですが、年齢のせいなのか、それとも勤め人の性なのか、いつものように早く目覚めてしまいました。気分は爽快です。早起きは三文の徳。コーヒーを飲みながらじっくりと朝刊に目をとおしました。ふだんは出勤前にさらっと活字を追うだけですが、時間を掛けて新聞を深読みするのもいいものですね。猫の小太郎が「会社に行かなくていいのか」と目で訴えてきたので「今日は休みだよーん」といって頭を撫でてやると嬉しそうに頭をぐいぐいと押しつけてきます。

部屋を片付け、洗濯をすませると昼近くになっていました。恵さんには予定があります。自転車で図書館に出掛けて本を返却し、駅前の書店で新刊本を購入したあと、その足で自転車屋さんに立ち寄る。店主のフミさんが今度、デビューする自転車のことで話をしたいのでしょう。タウン誌に登場してから、恵さんはフミさんのところの広報担当者みたいになっています。

恵さんは図書館をあとにして駅前に向かいました。駐輪するのは書店が入っているビル前の一角。わずかなスペースがあるので、いつもここに停めています。周辺に駐輪場がないことはないんですが、収容数に対して利用率がそれを上回り慢性的な“すし詰め状態”になっているため、やむなくここに停めておく。暗黙の了解なのでしょうか、複数の自転車がいつも並んでいるので、駐輪違反という意識はありません。

新刊本を購入した恵さんは同じビルの中に店舗を構えている喫茶店にはいってページをめくり始めました。読みたい本に目を通すのは至福のとき。つい、時が過ぎるのを忘れてしまいます。気がついたら二時間近くも経過していました。

暗転したのはそれから。路上にでたら駐輪したはずの場所に自転車が見つからないのです。周囲に目を配ってもありません。「へんだな。たしかにここに停めたはずなんだけれど。どうしちゃったんだろう」。恵さんの中で不安がじわりと芽生えてきました。向かいの路上にも見当たりません。近くの小公園や役所の公共スペースなどを隈なく探しましたが、ない、ない、ない。どこにもない。自転車が消えちゃった。冷静さがガラガラと音を立てて崩れてゆきました。ふだんなら気にもならない家電量販店やドラッグストアなどから流れる自社のCMソングや若いカップルの華やいだ声が神経を逆なでします。駐輪した場所の近くにバス停があります。恵さんはバスを待っている高齢の女性に向かって「あのう、このへんに停めてあった自転車を知りませんか」と訊ねました。もちろん、その人は知る由もありません。「さあ、どうでしょう」と困惑しています。恵さんは途方に暮れてしまいました。好事魔多し。 (次週に続く)

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第十四話   『放置自転車として撤去』  

念頭に浮かんだのは「盗まれた」でした。フミさんのところの自転車は盗難に遭うことが多く、購入したその翌日に盗まれたという気の毒な所有者もいます。交番に盗難届を出してもほとんどみつかりません。「いたずらされて移動させられたのではないか」ということも考えられます。鍵を切断するような強固なカッターも流通しているので、盗む気持ちがなくても、興味本位に乗り回したあと、どこかにポイと置き去りにするというケースもないわけではありません。あれやこれやと思いをめぐらした結果、「盗難」に辿り着いて、恵さんはダメモトで近くにある交番に立ち寄ることにしました。

顔に憔悴の色が浮かんでいたのでしょう。二人いたうちの若いほうのおまわりさんが粘っこい目を向けてきました。「なにか?」。恵さんの顔が強張っていました。「自転車を盗まれたみたいなので盗難届けを出したいのですが・・・」「盗まれた?」「ええ、多分」。奥のスチールの机で書き物をしていた年輩のおまわりさんの手がとまりました。「防犯登録はしてあるの?」と聞いてきます。「一応は」。自転車がなくなった場所、駐輪していたおおよその時間帯などを口にすると「盗まれたんじゃなくて、放置自転車とみなされて撤去されたんじゃないの」「えっ」。恵さんは言葉に詰まりました。「駐輪していたのはあそこのビルの前でしょう。駐輪監視員が放置自転車の撤去作業を実施していたよ」。そうか、そういうこともある。自転車がなくなったということばかりに気を取られ、放置というのがすっぽり抜けていました。「ちょっと待ってね」。年輩のおまわりさんがどこかに電話をいれてくれています。「そうですか。分かりました」といって受話器を置くと薄笑いを浮かべてきました。「自転車保管所に確認したら撤去作業を実施したって。一度、保管所に確認してみたら。そこになかったら盗難届けを出せばいいじゃないの」。一見、コワモテのおまわりさんであるけれど、保管所の連絡先と道順を教えてくれて、対応がとても優しい。

交番を出るや、恵さんは自転車保管所に携帯電話で連絡をとりました。男性がでて「どういう自転車なんですか?」と聞いてきたので「紺のフレームでタイヤが細く、シンプルな造りで車体は軽い。フレームの端にアルファベットで製造元のネーミングが小さく記されているので一目瞭然です」。恵さんは早口でまくしたてるように話ました。「ちょっと待ってくださいよ」。男性がのんびりといってきます。ほんの数分だったけれども、恵さんにはとても長く感じられました。「ええ、たしかに、その自転車を保管しています」「ほんとですか。よかった。ありがとうございます」。恵さんは携帯電話を手に何度も頭を下げました。すぐにでも駆け付けたかったのですが、本人を確認できるものが必要とあって、それらを持ち合わせていません。「明日、間違いなく受け取りにいきます」。安堵が拡がってきます。フミさんに「今日は行けない」と連絡をいれ、その理由をかいつまんで説明すると「バカだね。ホントに」とあきれられてしまいました。ちょっとした気の緩みからの路上駐輪。弁解の余地はありません。

(次週に続く)

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第十五話   『駐輪違反のペナルティーは5000円』  

帰宅すると、恵さんはさっそくおまわりさんが教えてくれた自転車保管所をインターネットで検索しました。「受付時間は平日なら午前十時から午後七時半。日曜、祭日は午後四時まで。引き取りには本人確認のできる運転免許証、健康保険証などを持参。撤去保管手数料は5000円。保管期間は撤去の翌日から30日間」とあります。金額をみてびっくりしました。新品のママチャリは1万円台で買うことができます。そう考えると、あまりにも高額です。引き取りに現れない所有者も少なくありません。後を絶たない放置自転車に対する見せしめもあるのでしょうか。撤去作業に従事する駐輪監視員の人件費などを考慮するとこのぐらいの金額を徴収しないとやっていけないのでしょう。恵さんが住んでいる自治体の撤去自転車台数は約4万4000台(平成23年度)。地域によって駐輪違反の金額はまちまちですが、1000円〜3000円というところが多いようです。

退社後、恵さんは自転車保管所のある最寄駅に向かいました。駅から歩いておよそ20分。足の便がとても悪いところにあります。飲食街を抜け、幹線道路を渡ってしばらくすると景色が一変しました。倉庫が点在し、人影も疎らになってきます。

保管所の場所はすぐに分かりました。フェンスで仕切られた一角に煌々とライトが照らされていたからです。受付けにはとうに還暦を過ぎたと思える男性が眠そうな顔をして椅子に腰かけていました。保管所にやってくる人たちは独特な空気を身に着けているのでしょう。恵さんの姿を確認すると、ぴょこんと立ち上がり「自転車の引き取りですか」と声を掛けてきました。昨日、電話で話した男性とは別人のようです。おそらくシフトで働いているのでしょう。「ええ、昨日、連絡を差し上げたものですが」。恵さんはぼそぼそといいました。「身分を証明できるものはありますか」。男性は恵さんの保険証にちらりと目をやると「ごくろうさん」といってきました。「ここまで歩いてきたんですか。けっこう遠かったでしょう」。時間を持てましているのか、それとも根がお喋りなのか、孫のことまで俎上にのせ、放っておいたらずっと話しているようなタイプです。恵さんとすれば事務的に対応して貰いたかったのですが、なかなか解放してくれません。「いま、自転車ブームでしょう。それなのに駐輪場が少ないので放置自転車が増えてね。こっちは忙しくなっちゃって困るのよ」。男性が棚に置いてあるスクラップブックを取り出してここ数年間の放置自転車の撤去活動回数のデータを読みあげます。「行政ももっと本腰を入れて放置自転車対策に取り組んでほしいものですな」。分身である自転車を一刻も早く引き取りたいのに、その気持ちが男性に伝わっていないみたいです。自転車に対する考えを押し付けてくるので、正直、鬱陶しい。「これから予定がありますので」といって話を打ち切り、5000円を差し出すと「いや、これは、どうも。いま、領収書を発行しますからね」。男性の顔が心なしかほころんでいました。

(次週に続く)

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第十六話   『駅周辺で撤去される放置自転車は年間229万台』  

「これから、どうなってしまうのでしょう」。廃棄処分業者によってスクラップにされてしまうのか、それとも、車体の面影をとどめないほど手を加えられてリサイクル自転車として売買されるのか。自転車である私は負の要因ばかりを考えてしまいました。駐輪監視員から放置自転車のシールを貼られ、ひょいと持ち上げられて軽トラの荷台に積まれて搬送先の自転車保管所に向かっているときの衝撃が大きかったのでしょう。荷台には真新しいピカピカの自転車も含まれていました。不思議なものでタイヤやハンドルが曲がったまま、身動きが出来ないほどぎゅうぎゅう詰めにされている同輩たちは、新品の自転車でもどこか薄汚れてみえてきます。スイスイスイと風を切って軽快に走行する姿とは対極にありました。自転車としての体を成していません。同輩たちから落胆と焦燥、所有者に対する憤怒のようなものが伝わってきました。私は恵さんが引き取りにきてくれることは百も承知しているはずなのに、ゆとりがなかったのでしょう。気持ちが尖ってしまい、恵さんをどこかで非難していました。

落ち着いたのは保管所に到着し、順番に保管場所に並べられてしばらくしてからです。今日の出来事を振り返ると、いくつかの光景がフラッシュバックし、それがいつしか一枚の絵になりました。保管所で過ごす初めての夜。フェンスの照らしているライトが消えるとそれまで愚痴や嘆きを口にしていた同輩たちも一様に押し黙りました。ぬくもりを失ったペダルやサドルはなにも語ってくれません。私はうつらうつらしながら朝を迎えました。新聞配達のバイク音が聞こえ、ヒューと警笛を鳴らしながら始発電車が通過していきます。小鳥の鳴き声がします。そのとき、気持ちの中で一陣の風が吹きました。すると、思考がゆっくりと動き始め、まあ、いろんなことがある。これもいい経験さと前向きになってきて、恵さんが引き取りにやってくる姿を絵の中に重ねていました。

放置自転車はいったん保管所に集積され、一定期間(1〜2か月)持ち主が現れるのを待ちます。内閣府の調べによると駅周辺で撤去された自転車だけでも全国で年間およそ229万台(2010年)。このうちおよそ半数の100万台は持ち主に返還されますが、残りは売却、リサイクル、廃棄処分にされます。修理し、中古自転車として再生される36万台のうち、国内で再利用されるのは25万台、海外へ譲渡されるものが11万台となっています。先の東日本大震災ではリサイクルされた放置自転車が大活躍しました。 放置自転車の対応は自治体によってさまざま。持ち主が現れなかった自転車をシルバー人材センターに譲渡し、組み立て、整備して地域住民に販売しているところもあります。廃棄処分の場合、業者に引き取ってもらうことになりますが、その費用が高額でばかにならないため、再利用を心掛けている自治体も多いようです。

(次週に続く)

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第十七話   『梅雨明け秒読み。自転車での遠出はこれから』  

沖縄、奄美地方では梅雨が明けましたが、関東は7月20日前後。今朝、テレビの天気予報では本日の最高気温は28度で不快指数は80といっていました。これはほぼ全員の人が不快と感じる数値。気象予報士が「きょうも日差しが強く蒸し暑いので水分を小まめに補給して熱中症にはくれぐれも気をつけてください」と警告を発していました。白く雲に覆われてどんよりとした空。雲間からは薄日が差していますが、午後からはところにより雷雨とのこと。この時期は半分、夏に足を踏み入れているという微妙な季節で、知らずしらずのうちに梅雨が明けていたというのも珍しくありません。当初、懸念されていた空梅雨も杞憂におわり、水不足もなんとかクリアできそうです。といっても、なにぶん、自然のことなので、先のことはなんともいえません。

恵さんの部屋の中は楽屋のように雑然としていて、洗濯ものがハンガーにつるされたまま情けなくぶら下がっています。もともと、こまめに掃除をするほうではないので、狭い居住空間は足の踏み場もないほど散らかし放題になっています。晴れ間が続けば部屋の片づけもできるのでしょうが、気まぐれな天気に打つ手がありません。朝、日差しがあってもすぐに雨になったりするので油断ならないのです。

恵さんはまだエアコンを稼働させていません。節電を心掛けているので、エアコンの使用は最小限に抑えたいからです。その代わり、扇風機が大活躍。猫の小太郎は当初、扇風機からの風を遠ざけていたのですが、このところ慣れてきたみたいです。雨を警戒してか、この時期は自転車での移動も少なくなりました。恵さんが自転車の乗るのは雨の降っていないときにスーパーに買い物に出掛けるときぐらいです。レインコートを着てまでもペダルを漕いでみたいという気持ちはないようですね。自転車であるわたしは雨避け防止のシートにくるまったままの玄関先に置かれています。気が向いたときに恵さんがぴっかぴかに磨いてくれるので、とても感謝しているのですが、遠出をしないのでストレスが溜まってきています。

同輩たちも同じ境遇なのでしょう。自転車通勤の姿をあまり見掛けません。雨と自転車とは相性がよくないのでしょう。たしかに、雨の中、傘を差しながら歩道を走るママチャリなどに出会うと、歩行者とぶつかることも多く危ない。事故にも繋がるし、雨が降っているときは自転車での外出を控えたほうがいいかも知れません。自転車は風を切って走り、エコとの対話を楽しむのが本来の姿なので、まあ、夏本番になるまでもう少しの辛抱でしょう。

職場のヨシロウさんだけはマイペースというか、多少の雨など気に掛ける様子もなく、昼になると傘を差して職場から自転車に乗って出掛けています。片手運転は危険だし、なによりも歩行者の迷惑にもなるので自転車は控えたほうがいいと恵さんはヨシロウさんに忠告していますが、「まあ、な」というぐらいでまったく聞く耳をもちません。 (次週に続く)

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第十八話   『ヨシロウさんが自転車で転倒』  

「それ、どうしたんですか」。ヨシロウさんの右手、人差し指に包帯が巻かれているのを恵さんは見逃しません。彼は同じ社屋にいる定年を間もなく迎える大先輩です。額にある小さなすりむき傷も気になりました。「ああ、これか」。ヨシロウさんは人差し指をくねくねと動かしながら「転倒した」とだけいいました。おそらくドジを踏んだのでしょう。「気をつけてくださいよ。もう若くはないんですから」。恵さんがこういうとヨシロウさんは恥ずかしそうに「いや、なに、自転車に乗っていたら出会いがしらに向こうからやってきた自転車とぶつかっちゃってさ。先方はまったく平気だったけれど、こっちが転んじゃって。ま、悪いのはこちらなんだけど」といいます。どういうことなのか。恵さんの刺すような視線にヨシロウさんはたじろぎながら「まいったな。じつは・・」といって事情を打ち明けてくれました

概略はこうです。週末、買い物に出掛けるため小雨がぱらつく中を傘をさしながら片手でハンドルを操作し、歩道を走行中、横道から飛び出してきた自転車と衝突。先方はレインコートを着用していて、もちろん、ハンドルを両手でしっかり固定して運転していたので、衝撃にもバランスを崩すことはなかったが、ヨシロウさんのほうはよろめいて転倒してしまった。片手運転、傘さしでは分が悪い。一方的に悪いのはヨシロウさんのほうです。「それがさ。先方はこっちを気遣ってくれて、怪我はありませんかと駆け寄ってきてくれたんだ。悪いのはこっちのほうなのに。いまどき、ああいう人もいるんだよな」。指の痛みが気になるようになったのは自宅に戻ってから。突き指をしたときのような痛みが拡がり徐々に腫れてきた。額に違和感があったので鏡をのぞくと擦り傷ができていて、その傷がちくちくと痛む。とりあえず、応急措置をして、月曜日になるのを待って病院でレントゲンを撮って診てもらったところ、骨折はしていなかった。「たんなる打撲だって。額は転んだときにどこかで擦ったんだろう」「大事に至らなくてよかったですね」。恵さんがしげしげと見つめるものだから、それに耐えられなくなってヨシロウさんがぷいと顔を逸らしました。

自転車の死傷者数は年間およそ16万人。自転車事故は交差点での事故が全体の70%近くを占めている。もっとも多いのが自転車と自転車とが出会い頭で衝突をするケース。ヨシロウさんの接触事故もここに含まれます。もっとも、あまりに軽傷のため、警察に通報しないで水面下で処理をするケースも多いだろうから、実際には死傷者総数をカウントしたら少なくても16万人×10ぐらいの数値にはなるのではないだろうか。ヨシロウさんにしても「警察には届けないよ。そんな大事じゃないからね」とさらりといいます。あまり危機感をもっていないみたいで、この日も雲行きが怪しい中、ヨシロウさんは社用駐車場の一角にある私的、専用駐輪場からママチャリで昼食のためにどこかに出掛けました。恵さんを連れていってくれた蕎麦屋にでも向かうのでしょうか。 (次週に続く)

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第十九話   『キムラ先輩が自転車で7キロのダイエット』 

そんなある日、九州在住のキムラ先輩から恵さんに電話がはいりました。「で、どうなのよ、そっちは」。なんのことを指してどうといっているのか。体調のことなのか、それとも仕事のことなのか。具体的なことを先にいわないのでさっぱり分かりません。先輩はいつもこんな話し方をしてきます。恵さんはそんな先輩の意味不明の対応に慣れているので「暑いので、夜も寝苦しいですよ」と応えました。別の特別な用件があって電話をしてきたわけじゃないので、恵さんも適当に、思いついたことを口にしています。恵さんは足元にせわしなく風を送ってくる扇風機の位置を変え、はあっと溜息をついたあと「人間て、ほんとに勝手なものですね。梅雨が明けて夏になればなったらで暑い、あついとまたぼやく。先輩も熱中症に気をつけてこまめに水分補給をしてくださいよ」というと、キムラ先輩は「いや、天気のことじゃなくて、自転車のことだけれどさ」といってきました。そうか、先輩は自転車のことをいいたかったのか。だったら、最初からそういえよ。けれど、恵さんはそのことを口にはだしません。

「自転車がどうしたんですか」。恵さんの口調は穏やかです。「俺、自転車通勤を始めただろう。最初はもの珍しげにみられていたけれど、いまじゃ、知る限りでは10人が通勤に自転車を使っているんだよ」。「えっ、10人も」。キムラ先輩の職場に社員が何人いるのか分かりませんが、比率としてはけっこう高い。「そうなんだよな」。まんざらでもないような話しぶりです。「先輩の貢献大ですね」。恵さんがよいしょして、持ち上げます。「うん、うちはエコロジーにウエイトを置いているからね。東日本大震災以降、社内では節電を徹底するようになって、ついこの前も・・・」と、話がだんだん横道に逸れていくので「職場の人たちはエコだけで自転車通勤をするようになったんですか」と恵さんが流れを戻すと、キムラ先輩はケラケラと笑ってから「そうじゃないな。俺がスリムになってきたのでそれが直接の理由じゃないかな」と言う。なんでも自転車通勤をするようになってから7キロ痩せ、お腹のぜい肉がとれ、顎のあたりもシャープになったそうです。そんな相貌をみて、メタボ予備軍たちが自転車通勤に切り替えたのでしょう。「もっとも、天気が怪しい日はクルマを使うけどさ」。「まあ、当然ですね」。キムラ先輩は思い込んだら周りがみえないところがあります。一途なところが周りに迷惑を掛けていることを当の本人は知りません。恵さんが知り合ったころからそうでした

「そっちはどうなの」といってきたので、「梅雨時期は自転車で外出する機会が少なかったけれど、夏本番を迎え、また、自転車で遠出をするつもりです。なにかあったら連絡しますよ」。そういって電話を切ったあと、恵さんは駐輪違反のことを話すのをはたと忘れていたことに気がつきました。 (次週に続く)

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第二十話   『地下鉄ホームで自転車仲間のカズヤ君とバッタリ』  

地下鉄のホームで電車を待っていると、「恵さん」という声がしました。恵なんていう名前はありふれているので、へんに反応すると、とんだ恥を掻くので素知らぬ振りを決め込んでいると、「フミさんのところの自転車」といってきたので反射的に顔を向けると、カズヤ君がひょいと片手をあげてにこにこしながら近寄ってきました。自転車屋のフミさんのところでGパンにだぼだぼのシャツというラフな服装を見慣れているせいか、スーツ姿のカズヤ君には違和感がありました。「似合わないでしょう」。カズヤ君は照れ臭そうにこういうので、恵さんも「ほんと、スーツが浮いちゃっている」とホンネをいいました。「これでも社会人ですからね、仕方ないんですよ。省エネ対策の一環として夏場は服装をラフなものでもいいということになっているんですが、部課長クラスがネクタイ、スーツなので末端のヒラ社員がGパンにTシャツというわけにはいかないんですよ」

カズヤ君の趣味は自転車と釣り。恵さんをサカナのボラに似ているといい、発想が縦横無尽なところに面白味があるのだけれど、スーツという鎧を着ると、その奔放さが霞んでみえてきます。唯々諾々と従わざるを得ないのは、同じ勤め人として恵さんも同じ。彼は彼なりに苦労しているみたいです。「いまからお帰りですか」。フミさんのところで発する、挑発するような口調とはがらりと変わり、上司に接するような態度です。恵さんが「なに、気取っているのよ。こら、いつものカズヤ君らしくないぞ」と笑いながらいうと、「そうっすよね」と嬉しそうな顔をしてネクタイを外しました。天候は晴れ。ビール日和です。「どう、軽く、一杯やってく」と誘うと、こませに飛びつくサカナのように「ガッテン、承知」と迷いもなく乗ってきました。

暖簾をくぐったのは魚料理がメインの居酒屋。恵さんは一度、人に連れられてやってきたことがあります。魚好きには評判の店で、けっこう混んでいました。カウンターしか空いていません。ま、仕方ないでしょう。生ビールがうまいこと。中生をものの一分ぐらいで飲み干してしましました。追加をしたあと、メニューから選んだのは恵さんは好物のシメサバとコハダ酢、カズヤ君がイカの姿焼きとマグロの赤身です。注文したサカナがやってくるまで突出しのらっきょの酢漬けを頬張りながら、恵さんは「カズヤ君て、どこに勤めているんだっけ」と訊ねました。フミさんのところでは顔なじみになっていますが、勤務先は知りません。「えっ、僕、いいませんでしたっけ」。鞄の中から名刺入れを取り出して、そこから抜き出した一枚を恵さんに差し出しました。大手家電メーカーが印字されています。恵さんが「へえっ、こんな大企業に勤めているんだ。知らなかった」というと、「一応、看板だけはね」とそっけなくいいました。所属部署は会社の屋台骨である家電事業部。「ふーん、そうなんだ」と恵さんは頷いています。

カズヤ君は会社の話をしたくなかったのでしょう。「自転車、調子はどうですか」と尋ねてきたので、つい、先日、放置自転車と見做され、撤去されて収容施設に運ばれてしまったと、ことの顛末を口にすると、カズヤ君は本当におかしそうに声をあげて笑いこけています。「ぼくは撤去されたことはないけど、これまでに何度か盗まれましたね」。恵さんにとっては初耳のこと。「じゃあ、戻ってこなかった?」「ですね。ひどいときはフミさんのところから自宅に乗って帰ってきた翌々日に盗まれました。あのときはショックで立ち直れなかったですね。ひどいことをする奴がいるもんだと盗んだほうを恨むよりも、盗難にあった自分が情けなかったですね」。

(次週に続く)

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第二十一話 「境内の下にある駐輪場が嬉しい」   

「メグちゃんの夏休みはいつ?」。自転車屋さんに立ち寄ったとき、店主のフミさんがこう尋ねてきました。「一応、来週から一週間だけど、土日をいれるので正確には9日間かな」というと「勤め人はしっかり休みをとれるのでいいね」。あまりいいとは思っていないような顔をしてフミさんは壁に掛かっているカレンダーに目をやりました。そして、日にちを特定し、近くの神社名をあげて「夏祭りがあるので暑気払いも兼ねて行ってみない」と誘いを掛けてきます。

夏休みといっても恵さんはこれといった予定はありません。観光地にいっても人、ひと、ヒトで疲れるばかり。旅行には出掛けたくないので、なんとなく家の中でぼうっとして過ごすのでしょう。「夏祭りですか?」。恵さんが気のない返事をすると、フミさんがニコニコしながら「よし、決定」といってきました。なにがどう決まったのか分かりませんが、境内に作られる屋台で一杯、飲もうということです。「メンバーは誰なの?」。念のため、そう聞いてみると「とりあえず、メグちゃんはオーケーだけれど、夏休みをとっている人もいるからこれから連絡をとってみるよ」とフミさんはいいます。恵さんに声を掛けたということは、自転車さんの取り巻きたちが何人かやってくるのでしょう。フミさんは赤いサインペンでカレンダーの日付に丸印をつけました

口にはしませんが、恵さんは数え切れないぐらいその神社に足を運んでいます。この神社の最大のイベントは夏祭り。金魚すくい、綿菓子、やきそば、お好み焼きなどの屋台が出店し、威勢のいい掛け声が聞こえてきます。「集合時間は午後7時。待ち合わせ場所は鳥居の下あたりということにしよう」。フミさんの心は夏祭りに飛んでいました。

 神社のご神木は樹齢約600年、幹の周りが10メートルといわれる大銀杏。恵さんの関心はそっちのほうよりも、境内の一角にある駄菓子屋です。店番をしているのはおばあさんで、軒先には子供用の自転車が数台、停まっていました。あんず飴やソースせんべいなど、懐かしいものがガラス瓶の中にはいっていて、通りがかりの大人も足をとめて、頬を緩めていく。恵さんは決まってラムネの炭酸水を買い、向かいのベンチに腰をおろして四季の移り変わりを目にしながらそれを飲むのが楽しみでした。その駄菓子屋がいつの間にかなくなってしまい、子供たちの姿をあまり見掛けなくなりました。いまは跡地にコーヒーや抹茶を提供する喫茶店が出来て、近所の主婦たちの情報交換の場となっています。

縁日は毎月8の付く日。土日がそれに重なると境内でフリーマーケットが催され、これがけっこう評判を呼んでいます。最近、境内の階段下にあるトイレの脇には駐輪場が設置されました。自転車族にはこうした心配りが嬉しい。駐輪場でよく見掛けるのが電動式のアシスト自転車。その数はやってくるたびに増えているような気がします。 (次週に続く)

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第二十二話「夏祭りの魅力は見世物小屋での芝居」   

この神社の夏祭りはよそではまずお目に掛かれないものがあります。見世物小屋です。いつ頃から、小屋が立ったのか、どうしてこの神社なのか。詳しいことは分かりませんが、このデジタル時代に、アナログを地でいくような芝居がみられるのも貴重です。「みたことある?」。フミさんが含んだような言い方をしてきます。「さあ・・・」。恵さんも明確な回答をしません。

恵さんはテントを張った小屋を思い浮かべました。入り口には赤地の布が掛けられ、裸電球が妖艶な光を放っています。演目は「蛇女」。恒例になっていますが、なぜ、「蛇女」なのか。主催者に一度、聞いてみたいところです。その年によって、蛇はシマヘビだったり、アオダイショウだったりするのですが、ストーリーはほとんど変わりません。主人公は年齢不詳の白装束の女性で、壁にペンキを重ねたように化粧を厚く塗りたくって登場します。口を開いたときに垣間見える歯がなぜか、きれいなのが印象に残っていました。主人公は毎年、違っているようにもみえますが、定かではありません。恵さんの好きなのは口上。入り口で仕切る女性の甲高い声です。「世にも不思議な蛇女」と威勢よくいい、「お代はみてからで結構だよ。さあ、さあ、はいった、はいった。もうすぐ始まるよ」。これを繰り返します。客の入りが少ないときは、開演が遅れますが、そこは愛嬌。舞台では蛇女が生きたヘビに噛みついて血を絞り出し、くねくねと動くヘビの肉をがぶりと齧る。ヘビの正体がなんであるのか、そのへんはいいでしょう。

見世物小屋のピークは昭和30年代でしょうか。「ロウソク女」というのもありました。溶かしたロウソクを口にいれて、火を噴くというものですが、これも一世を風靡した感があります。見世物小屋には不思議がいっぱい詰め込まれていて、常識では推し測れない世界が拡がっています。それを体感できるだけで楽しい。

テントというのもいい。なぜか郷愁を呼びます。見世物小屋ではないけれど、恵さんは祭りで自転車の曲芸乗りをみた記憶があります。テントの中に張られた細いロープの上を自転車がするすると滑っていく。たしか、自転車を操っていたのは少年で、それをみたとき、その経験と技術のなせる技に感動し天才じゃないかと思いました。テントの中には怖いものみたさの想像が包み隠されています。お祭りでプロレスもどきをみたこともあります。これも、やはりテントの中で演じられていました。レスラーの顔はとうに思い出せなくなっていますが、どんどんテンションがあがり熱くなっていく自分がそこにいました。見世物小屋もあなどれません。

「いまどき、見世物小屋で芝居をみるのがいるのかね」。フミさんは鼻から敬遠しています。「いや、こういう時代だからこそ逆に面白いんじゃないですかね。存在価値はあると思いますよ」というと、フミさんは恵さんの顔を覗き込んで、「ああ、やっぱり見世物小屋にはいったことがあるんだ」。どんぐり眼が小馬鹿にしています。 (次週に続く)

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第二十三話「自転車愛好者が鳥居の下で」   

そのとき自転車屋さんの作業部屋兼、事務所のドアがふわりと開きました。「うー、あつ、アツ、暑い」。フミさんの幼友達でご近所のタケコさんが手を団扇代わりにしてぱたぱたと扇ぎながらのっそりとはいってきました。鼻筋に汗が浮いています。エアコンの効いているところにいると皮膚感覚は鈍ってしまいますが、戸外はかなり暑いのでしょう。そういえば今朝、テレビの天気予報では今日の最高気温は34度といっていました。連日、猛暑が続いています。「あら、メグちゃん、珍しい」。タケコさんと会う機会が少ないだけで、フミさんのところにはしょっちゅう顔をみせています。「なんか、用か?」。フミさんがつっけんどんに対応すると、タケコさんもそれと同じぐらいでそっけなく「麦茶、ちょうだいよ」といって勝手知ったっるなんとやらで、自分で冷蔵庫から麦茶を取り出してコップで二杯ほど飲んで一息いれ、「ちょっとタイヤの空気入れ」といって、タケコさんは乗ってきた自転車を部屋の中にいれ、部屋の隅にあるエア装置を引っ張り出しました。これだとほんの数秒でタイヤに空気がはいります。

「タケちゃん、今週、暇?」「今週のいつよ」。フミさんが神社の夏祭りに参加し、そこで暑気払いをする予定があることを伝え、具体的な日時をいいました。「帰ってから予定をみないとなんともいえないけど、多分、大丈夫だとは思う。あとでブンちゃんに連絡をいれるわ」。フミさんの名前は文彦。二人はブンちゃん、タケちゃんと呼び合う仲です。タケコさんは税理士夫人。自宅の敷地内にある事務所で電話の対応など夫の仕事をサポートしています。フミさんが茶々をいれました。「税理士は机の前にすわっているだけで仕事が降ってくるんだから、忙しいわけないよな」というと、「ブンちゃんには理解出来ないでしょうが、税理士もやっていくのは大変なんだから。税理士夫人なんていって安穏とはしていられないの。仕事を取るために私は毎日、営業しているのよ」。タケコさんがむっとしていいました。

午後7時。待ち合わせ場所である鳥居の下にはタケコさんが真っ先にやってきました。なんだかんだいってもお祭りが好きなんでしょう。夏の晴れた日のこの時間帯はまだ闇が下りてきません。薄暮。空には線を引いたような白い雲が残っています。転勤先から本社に戻ってきたユウジさん、バリバリのOLであるサトミさんも姿をみせました。あと、名前だけは聞いているけど、恵さんの知らない顔が男女それぞれひとり。いずれもフミさんのところの自転車愛好者です。カズヤ君は都合が悪いので欠席といってきました。若いのでいろいろと予定があるのでしょう。「よし、これで、一応、全員そろったな」。鳥居の下にやってきた顔ぶれに目を向けながらフミさんは上機嫌です。「暑いね」。ユウジさんはこういいながらふうっと溜息をついて、通勤鞄の中から小ぶりのタオルをとりだして首回りをごしごし拭いています。茶色い革靴、スラックス、白地の半袖のシャツ。いかにも会社帰りに駆けつけましたというスタイルです。サトミさんはだ膝まであるだぼだぼの綿を身につけています。インド風というか、東南アジア風というか、通勤でもこんな感じなので、勤め帰りなのか、帰宅して出直してきたのか見当がつきません。「メグちゃん、夏休みなんだって」。フミさんから聞いたのでしょう。「ふーん。どこにも出掛けないんだ」とサトミさんがいいます。余計なお世話です。「家の中でごろごろしてる」「それ、正解かもね」。サトミさんがくすんと笑ってこういいました。 (次週に続く)

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第二十四話「整理券と口上」  

神殿近くの一等席に設けられた屋台で、フミさんグループは大テーブルを陣取りました。暑いせいか、缶ビールもすぐに温くなり、冷凍枝豆も手を伸ばすころには、ふにゃふにゃにゃ。焼き鳥だけは本来の姿を維持していましたが、あまり食指はそそられません。それでも、話題が自転車なのでそれなりに盛り上がりました。自転車好きが集まっているだけに、どうしてもそういう流れになってしまうんですね。ユウジさんは夏休みを秋口にとり、信州でサイクリングを計画。サトミさんは友人が近々にオープンする飲食店の手伝いをするといいます。「お店のレイアウトを頼まれているの。壁にフミさんのところの自転車を掛けて、自転車のイタリアンという感じにしたいの。いいお店なんだからきてよね」とサトミさんはアピールしています。

そのとき、カンカンカン・・・。見世物小屋からツケ打ちをする音が聞こえてきました。演目が始まるという合図です。フミさんグループはそれぞれ自転車のことに夢中になっているので、小屋のほうにはまったく関心がありません。ふんわりと途切れ途切れに聞こえてくる口上を耳障り、うるさいなという感じで受け取っています。恵さんだけが、「さあ、さあ、はいった、入った。お代はみてからでけっこうだよ」という声に引き寄せられ、屋台での宴会がお開きになったあと、小屋を覗いてみようという思いがあります。この場でそのことを打ち明けると、反応がどんなものか分かっているため、口をつぐんでいました。

時間は8時半になります。屋台にいたのは一時間強でした。人出が増えてこれからが祭りの本番という時間帯ですが、まだ暑さが残っているせいか、フミさんグループは冷やかし半分に屋台巡りをすることもなく、早々と引き揚げていきました。

ひとり、居残った恵さん。「舞台の途中だけど、はいっていいかな」。小屋の入り口で口上をいっていた女性に声を掛けると「あと、10分で二幕目が終わるのでちょっと待って。三幕目の最初からみたほうがいいよ」。女性は痩せ型で、細い体のどこからハリのある口上がでるのか、それが不思議です。「じゃあ、ちょっとその周りを一回りしてくる」というと、「整理券を渡しましょう」といってきました。えっ、そんなものあるの。長蛇の列ができるならともかく、閑散としているのに。思わず、ぷっと吹き出しそうになってきました。女性はマジメな顔をして、ポケットから紙切れをとりだし、そこにフェルトペンで「整理券」と書きました。この「整理券」がどういう意味をもつのか分かりません。

時間を見計らって、入り口にいき「整理券」を差し出そうとしたところ、女性はそれに見向きもしないで、そもそも「整理券」の存在そのものを忘れてしまったようで「いま、幕間なので、グッド・タイミングよ」といってすぐにいれてくれました。客席は立ち見です。高齢者の男女が複数と、若いカップルが一組いるだけです。「整理券」はなんだったのでしょう。小屋の中の照明は足元がみえないぐらいに薄暗く、舞台の中央だけが電球に照らされています。板を敷いた上に白いシーツが掛けられ、隅に四角い箱が布で覆われていました。おそらく、そこに「蛇」がはいっているのでしょう。カンカンカンと響くツケ打ちの音が消えると、どこからとなく白装束の女性が姿を現われ、箱の中から「蛇」を取り出して・・・・。舞台が終了すると溜息、失笑に混じって拍手をする人もいました。恵さんはエールを送りたいほうです。

このあと、恵さんは旅に出ました。 (次週に続く)

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第二十五話 「夏の奇妙な自転車体験」   

ここは、どこなんだろう?。太陽がすごく近くにあり、砂塵が舞い、照りつける日差しが痛い。灼熱の国だ。熱風の壁が立ちふさがり息をするのも一苦労。南国であることは確かだけれど、これまでに訪れたことのない地域です。どうして、ここにいるのか恵さんにも分かりません。もしかしたら、砂漠の中?自問しながら恵さんは自転車のペダルを漕いで力走していました。砂山に抱かれるようにして造られた道はまっすぐで、どこまでいっても風景は変わりません。もう少しいけば人家がある。木々の緑にも出会えるはず。強くそれを願っていますが、延々と続く単調な景色に変化はみられません。地図には集落が存在しているはずなのに、そこに辿り着けない。

なぜだ。恵さんは切歯扼腕しながらもペダルから足を離そうとはしません。喉はとうにからから。目も痛くなってきました。そのときハタと気がつきます。そもそもこの自転車は移動しているのかどうか。固定されている自転車をひたすら漕いでいるような気がしてきます。ここでやっと、自転車を停めました。自転車はいつも乗っているものと違ってマウンテンバイク。ロープで囲ってあるだけの駐輪施設から何十台という自転車が群れになって一斉に飛び出してきたはずなのに、後にも先にもその影は見当たりません。恵さんの自転車だけがぽつんと取り残されてしまった感じがします。

やがて、日が傾いてきました。西日が容赦なく照りつけてきます。道路の先には地平線上に太陽が真っ赤に燃え、空を溶かして巨大クラゲのようにゆらゆらとうごめいていました。ここは一体、どこ?。異国の地に迷い込んだ恵さんはここで初めて恐怖というものを覚えました。トラックでもなんでもいい。道路を爆走していく車体を見届けたらどれだけ気が安らいだでしょう。それなのに物音ひとつ聞こえてこない。シンとした静寂に包まれています。喉の渇きもそろそろ限界にきていました。

異変が起きたのはそのときです。幕がさっと下ろされ、再び幕が開いたときには自転車ごとふわりと浮き、宙を漕いでいました。今度の自転車は電動アシスト。スイスイスイ・・・。空に浮いているのでとても軽快です。まるで鳥になったような気持になりました。アシスト自転車に乗るのはこれが初めて。こんなに楽ちんだとは知りませんでした。こりゃいい。自転車は気の向くままに走っています。

スピルバーグ監督のSFファンタジー『E.T.』に少年が自転車のカゴにE.T.を乗せて空を飛ぶシーンがありますが、それに思いを重ねていました。どこに向かおうしているのでしょう。手の届くようなところに惑星がありました。方向からすると、そこを目指しているようなんです。アシスト自転車はモーターが漕ぐ力を補助してくれるので、しゃかりきになってペダルを回転させなくてもいいのですが、恵さんはここでも懸命に足を動かしました。自転車は夜空を泳ぎながら、惑星にぐんぐん近づいています。躍動感があり、恵さんは空中ブランコを楽しんでいるような、居心地のいい浮遊感に身をゆだねていました。

(次週に続く)

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第二十六話 「自転車で宇宙を旅する」   

「メグ」。向かいにレンがいました。「はっ、ここはどこ」。恵さんはカウンターにうつぶせになって眠っていました。「なに、寝とぼけたことをいってんのよ。お店よ、ここは」。よだれをぬぐって、視点を定めると、たしかに、レンのやっているスナックです。薄汚れた壁、淡い光。見慣れた店内が静かに呼吸しています。埃と酒とが入り混じったような臭いが降ってきました。客は誰もいません。いま、何時なの?「はい、水」。レンは氷の欠片のはいったグラスをすっと差し出してくれます。喉が渇いていたのでしょう。恵さんはそれを一気に飲み干しました。

「夢でも観てたの?」。レンが首をかしげながら意味深な笑顔を浮かべています。「いや、そうじゃない」。相槌を打ちながら、体験した出来事を反芻していると、レンは「まあいいや」といって恵さんの顔を覗き込みました。「どっかで、飲んできたの?」。神社の夏祭りに出掛けて屋台でビールとチューハイを飲み、その後、見世物小屋にはいったけれど、舞台が引けたあと・・・・それから記憶がすっぽり抜けています。どこかに立ち寄ったという覚えはありません。「飲んでないよ」と恵さんはいいましたが、レンは鼻から信じていません。「ま、そういうことにしておこう。でも、うちにきたときは相当、泥酔していたからね」。そもそも、どうしてこの店にやってきたのか。「店にはいってきたらカウンターでぐでっとなって。まあ、あんただからいいけどさ。ちょっと、疲れ気味じゃないの。仕事もほどほどにしないとね」。誤解です。仕事は暇だし、適当に時間をみつけてはサボっているのだから。

「ちょっと旅に出掛けたので」。夏祭りのことは伏せたものの、こういってからひどく後悔しました。いわなきゃよかったと。詮索好きのレンは言葉尻をつかまえて、「どこに行ってきたのよ?」と好奇心を向けてきます。「強いていえば異国かな」と恵さんはもってまわったような言い方をしました。「異国って、外国でしょう。どこ、どこに行ったわけ」「南のほうかな」。恵さんにもその地がどこか分かりません。だた、やたら暑かった。「もしかしたらアフリカ?」。そうかも知れない。「宇宙にとても近いところかな」というと、レンの顔がほころびました。「わかった。インドでしょう」。そうしておきましょう。あれこれいうと話がややこしくなる。「バカンス?」「なわけないでしょう」。レンは恵さんの性格を知っています。「ま、これ以上、聞かないけどね。聞いてもあんたは話さないだろうから」。

レンが携帯ラジオをつけました。懐かしい曲が流れています。「これ、知ってるよね?」「うん」。学生時代、喫茶店や居酒屋などに入り浸って「哲学」を議論していたころに流れていた曲です。「あの頃は夢があったもんね」。レンがぽつりとそういいました。「怖いもの知らずだったから」。

(次週に続く)

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第二十七話 「自転車を引く友人に「話そうか、よそうか・・・」」  

恵さんと、レンとは学生時代の同窓です。名前は「蓮」。レンは演劇を専攻し、卒業後は映画会社に職を得ましたが、仕事が現場から離れた事務職だったために30になる手前で退職。演出家として独立しました。と、こういえば恰好いいけれど、組織を離れて食べていくのは大変なこと。日々の生計を支えるために劇場でアルバイトをしていたところ、演劇関係者のツテでいまの店を手伝うことになり、もともと、客商売が性に合っていたのでしょう。店を任されると常連客も増え、売り上げも上昇。その後、店の権利を買い取っていまでは経営者です。アルバイトの学生を雇うまでになりました。才能というのはどこで開花するか分かりません。

「いま、何時なの?」「午前4時を過ぎたところかな」。レンは煙草を吸いながらカウンターの隅にある目覚まし時計に目をやりました。「いつも、店はこんな時間までやっているんだ」「なにいっていのよ。あんたがやさぐれて迷い込んできたので閉めるに閉められないんじゃない」。レンがタオルを投げてきました。「顔を洗っといでよ」。トイレの洗面台に映った恵さんの顔は目が窪んでくたびれています。思わず自分で「ひでえ顔」と呟きました。それでも、水を流しながら顔をごしごしこすっていると、顔の輪郭がしゃきっとしてきます。カウンターの中でレンが帰り支度をしていました。「まさか、いまからビールなんてことはないよね」。そんなことはいいません。ただ、ほのかに空腹感があります。態度にそれがでていたのでしょう。

「あんた、もしかしたらお腹空いてんじゃないの?」。レンがこういいます。さすが、読みが深い。「ラーメンでも食べようか」。意義なし。こうなると行動はじつに素早い。レンは手提げ袋を肩に掛け、「ガスコンロ、よし」「煙草の灰皿、よし」と火元を確認して、カウンターからするりと抜けだし、店内の明かりを消すと、鉄扉のドアを体で押して踊り場にでました。レンがドアの鍵穴にキーを差し込んでいるとき、恵さんはエレベーターのボタンを押す。この店は4階にありますが、ビルが古いので昇降機がなかなかやってきません。せっかちなレンが「もう、腹立つな。このおんぼろエレベーター」といって壁を蹴飛します。昇降機がのろのろと上昇してきました。

1階のエレベーター脇に自転車が立てかけられていました。レンが所有しているものです。店の行き帰りに自転車を使用しているとは知りませんでした。たしか、レンの住まいはここからそう遠くないところにあるマンション。「自転車を使っているんだ」「これ、小回りが利くからね。けっこう重宝している」。自転車はママチャリです。「夕方、買い物をしながら店にやってくるわけよ。自転車はとても便利だね」。レンは自転車を引きながら、恵さんが自転車にこだわっていることを思い出したようで「メグも、自転車に造詣が深いんじゃないの」といってきました。「じつは、南国で自転車に乗ってさ。それから空を飛んだ」。恵さんは喉元まで出掛った言葉をぐっと飲み込みました。

(次週に続く)

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第二十八話 『自転車の旅を理解できるのは「私」だけ』  

路上にでると、繁華街の朝の表情がありました。空き缶や瓶が転がり、飲食店から出された生ごみのポリバケツが通りの脇に置かれています。ビニール袋のまま放置しているところもあって、それを狙ってカラスがくちばしを尖らせていました。二人がはいったのは中華料理のチェーン店。どの品も料金はリーズナブルで、昼はサラリーマンなどで混み合っています。レンはラーメンと餃子、恵さんはタンメンに決めましたが、店員がやってきたときどちらともなく顔を見合わせてビールを頼みました。その際、つまみのシナチクも忘れません。レンは家に帰って寝るだけ、恵さんも休暇中ですから、とやかくいわれる筋合いはありません。朝のビールのうまかったこと。

レンと別れたあと、恵さんは電車で帰宅しました。時間帯から車内は空いていました。座席に腰をおろして目を閉じると旅のことが浮かんできます。夢であるとは思っていません。ですが、どういうことから旅に出たのか。そのへんの説明がつかないのです。時間を戻して再現してみましたが、納得いく答えがでません。「異界」にでも踏み込んだのか。それとも「神隠し」にでもあったのか。だとしたら天狗の仕業?。誰でも記憶を失うことがあります。いざなって行かれたところが灼熱の地。そして、宇宙です。キーワードは自転車。どちらの世界でも恵さんはペダルを漕いでいました。人に話す場合、どういったら理解してもらえるか。「夢」でくくれば、とても分かりやすいけれど、そうしたくありません。自分だけの奇妙な体験としてそっと胸にしまっておこうと思いました。

自宅では小太郎が首を長くして恵さんの帰りを待っていました。ドアを開けると駆け寄ってきて、踝に頭を擦りつけてきます。愛情を求めているのか、それとも「行方不明」になった主を気遣っているのでしょうか。「帰ってきましたよ」。小太郎を抱えてナデナデしながら、「旅に行ってきたの。未知との遭遇だよ。おまえに話しても分かんないだろうけどさ」。自転車である私だけはなんとなく理解できます。ただ、ひとつだけ注文をつければ、自転車はマウンテンバイクや、電動アシストでなく、この私であってほしかった。であれば旅の筋書が違っていたかも知れないのに。そのへんがちょっぴり残念でした。でも、「異界」にせよ、「神隠し」にせよ、日常の、ふだんの生活に戻ったのだから、それでよしとしなければなりません。

シャワーを浴び、着替えをした恵さんはなにを思ったのか、自転車を磨き始めました。その手つきはとても細やか。車輪のスポークや、チェーンも丁寧に拭いてくれます。小太郎が自転車である私と、恵さんを見比べていました。彼は彼なりに思うところがあったのでしょう。恵さんがカメラを取り出してきました。ぴっかぴかになった自転車を前に小太郎を抱えての撮影。自動シャッターに切り替えた一眼レフがカシャという小気味いい音を立てます。小太郎はちょっとだけむずがりましたが、「はい、チーズ」といったカメラ目線になっています。はにかんでいる恵さん、自転車である私は毅然としていました。季節は秋。夏の思い出が一枚の写真に凝縮されています。

(次週に続く)

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第二十九話 「ヨシロウさんが60歳で定年退職」   

恵さんの周りにはこの10月、旅立ちを迎えた人たちがいます。そのひとりがヨシロウさんです。60歳、定年で会社を去りました。本人が希望すれば65歳まで残ることができるのですが、「もう、宮仕えはこりごり」といってあっけなく辞めてしまいました。景気がやや上向きになったとはいえ依然、就職難。とくに中高年にとっては厳しい時代です。体力的にもまだ現役で続けられるのに、ちょっともったいないような気もしますが、ヨシロウさんにはそれなりの考えがあったのでしょう。

群れることをよしとしなかったがために、時に偏屈、へそ曲がりとみられ社内では浮いていましたが、性格が悪いわけではありません。処世術がへたで立ち回りがうまくないために誤解されることが多かっただけで、自転車を通して言葉を交わすことの多かった恵さんは、ヨシロウさんの人柄を理解しているつもりです。

定年の挨拶にやってきたとき、恵さんは「近々にどこかで食事でもどうですか?」と声を掛けたところ、ヨシロウさんは意外にあっさりと「いいよ、俺はいつでも。時間はあるから」といっていたので急きょ、送別会を催すことにしました。といっても、ヨシロウさんと二人だけです。こういうことは思い立ったが吉日ではないけれど、すぐに行動に移さないと、なかなか実現しません。「近いうちに」といったのが、気がついてみたら何年も経っていたということは珍しくありませんから。

送別会は居酒屋の個室です。ヨシロウさんもそのほうが気が楽でしょうし、恵さんも負担にならないので、そこに決めました。板張りの8畳ほどの広さのところに卓袱台を挟んでふたりが向かい合っています。「長いこと、お疲れさまでした」。恵さんが神妙な顔をしてこういうと、ヨシロウさんは「いや、いや」といって照れ笑いを浮かべながら、「しかし、こうしてメグちゃんに送別会をして貰うとは思っていなかったよ」。

ふたりの距離を近づけたのは自転車です。自転車が存在しなかったら、恵さんはヨシロウさんと言葉を交わすこともなかったでしょう。「自転車が縁でしたね」「そうだね。駐車場の空いているところにママチャリを置いていなかったら、メグちゃんと話す機会もなかっただろうな」「自転車に感謝しなくちゃ」「まあ、そういうことになるな」。恵さんはあるはずもないところにヨシロウさんのママチャリが置いてあった光景を思い浮かべていました。ヨシロウさんも社内で顔はみたことがあるけれど、名前も所属先も知らない恵さんから突然、声を掛けられたときのことを脳裏に描いていました。「あのときはびっくりしたよ。いきなり自転車に乗っているんですかっていわれて」「昼休みにヨシロウさんが自転車でどこかに出掛ける姿を何度か目撃していたんです。うちの会社、自転車使用は原則、禁止でしょう。なのに、どうしてなんだと」「まあ、そりゃそうだ。警備はともかく、社内の連中は自転車に無関心だからな」。しばらく、自転車の話題で盛り上がっていました。

(次週に続く)

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第三十話 「定年延長を希望しなかったワケ」   

「それはそうと、どうして定年延長を希望しなかったのですか?」。酔いの勢いもあって、恵さんは核心に触れました。これだけはどうしても聞いて置きたかったのです。ヨシロウさんは「ふむ」といって皮肉な笑いを口元に浮かべたあと「どうしてっていわれてもな」と、困ったような顔をしました。「いや、いいんです」。他人の気持ちを忖度しない、あまりにも不躾な聞き方をした恵さんは、自分が恥ずかしくなりました。「人事部のほうからもそういわれたよ。まだ、5年、先が残っていますよって。なにか計画があるんですかって」。ヨシロウさんは恵さんの困惑を楽しんでいるかのようにいいました。「ま、そうだろうな。会社に居残ることができるのに60歳で辞める奴はそういない。第二の人生じゃないけれど、やりたいことがあって退職するんじゃないかと考えるのが、まあ、ふつうだ。声を掛けてくれるのはありがたいけれど、断った。といって、これから先の青写真があるわけじゃないんだ。ただ、なんとなくもういいかなと」。

ヨシロウさんは夫人とふたり暮らし。子供はすでに独立しています。夫人は体調を崩して入退院を繰り返しています。会社に自転車を置いているのは、昼休みに時々、夫人の入院先の病院に出掛けるためであることは聞いていました。「これから奥さんの看病に専念するというわけですね」「まあ、それもあるけど、それがすべてじゃないよ」。ヨシロウさんがまっすぐな目を恵さんに向けてきます。「学校を出てから三十数年間、勤めてきたよ。恰好よくいえば脇目もふらずに。だけど、65歳になるまで勤めてもいまの延長だろう。やっている仕事の本質はそう変わらないのに、身分が嘱託ということになって給与を半減されたんじゃ割に合わないからね」。60歳という年齢は気力、体力、集中力もまだ残っている。「体の自由がきくうちになにかをやろうというわけですね」。恵さんが補足すると、ヨシロウさんは笑いながら手を振って否定した。「いや、そうじゃなくて、さっきもいったように、これといった目的があるわけじゃないよ。言いたいことは、なんていうかな、たとえば、本を読むにしても、なにかに興味を覚え、思考を磨くにしても若いうちのほうがいいだろう」。いまの60歳はスタンスも軽い。「60歳から65歳までの5年間というのは今後、生きていくうえでけっこう大切な時期だと思うわけよ。人生の通過点という意味でも見逃すことができないと、漠然と思っているわけよ。まあ、そんなところかな」。

ヨシロウさんの性格からして、慎重に見極めたうえでの60歳定年の選択だったのだろう。退職後の生活を晴耕雨読に見立てる人もいるが、人生85歳と考えたら、60歳なんてまだ駆け出し。先は長いのだ。大切なことは志を高くもって楽しく生活していくこと。ヨシロウさんはなにをやるのだろう。会社という鎧を脱ぎ捨ててさっぱりした表情で、酔いも加わりやや饒舌になっている先輩の話に耳を傾けながら、恵さんはそんなことを思っていました。

(次週に続く)

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第三十一話 「玄関脇に駐輪してあるクロスバイクとマウンテンバイク」   

「すっかり、ごちそうになってしまったね」。ターミナル駅の広場のところでヨシロウさんがほってた顔をほころばせながらこういってみました。「いや、こちらこそ楽しいひと時を過ごすことができました。ありがとうございます」。ヨシロウさんは私鉄、恵さんはJRを利用するのでここでお別れです。ヨシロウさんが背中を向けてすたすたと歩き出しました。その足がぴたりと止まったかと思ったら、振り向いて恵さんに近寄ってきます。なにか忘れ物でもしたのかな。そうではありませんでした。「今度、うちに遊びにこないか」。ヨシロウさんが誘いを掛けてきたのです。「えっ、自宅に」。想定外の出来事に恵さんは戸惑いながら「携帯に連絡します」とだけいいました。ヨシロウさんの自宅に行ったことはありません。恵さんはその場で態度を明らかにしませんでしたが、気持ちは「行く」ということに傾いていました。

私鉄沿線にあるヨシロウさんの自宅は、駅から歩いておよそ15分の距離。商店街を折れ、なだらかな坂道を少しのぼったところにありました。閑静な住宅地に佇む木造二階建て。瀟洒な住宅です。玄関脇にクロスバイクとマウンテンバイクが置いてありました。どちらも乗らないで放置している自転車ではありません。年季が入っていて現役バリバリで走行している気配がうかがえます。クロスバイクのサドルは皮がはげて色が変わっていますが、きれいに磨き上げられていました。フレームにしてもしかり。自転車に対する愛情を垣間見ることができます。

意外だったのは犬を飼っていたことです。ペットが好きなタイプにはみえないので、ちょっと驚きました。犬はおとなしいというか、小屋の中から出てこようとはしません。ワンと吠えるわけでもなく、うずくまったまま思慮深い目でじっと訪問者を観察しています。家主との関係を洞察しているのかも知れません。賢い。そういう感じがします。恵さんところの猫、小太郎とはかなり違います。犬と猫の性格を比較するのは無理がありますが、小太郎はやんちゃで、あまえん坊。猫は一般的に人に媚びないといわれますが、小太郎はどうもそうでないようで。押しも強く、手でお腹をなでなでしておくれ、櫛でとかして毛づやをだしてくれなどあれやこれやと要求も多い。要するにわがままなんです。自転車のタイヤで爪を研いだり、サドルを齧ってみたり、やることがめちゃくちゃ。誰に似たんでしょうか。

玄関のチャイムを押すと待ちかねていたようにヨシロウさんがぬっと顔を出しました。作務衣を着ていたので軽い戸惑いを覚えていると、白いものが混じった無精髭がぴくぴくと動きました。「すぐにここが分かった」「ちょっと迷いました」。恵さんはヨシロウさんの家を通り越し、番地を確認しながら戻ってきて、自宅に辿り着きました。「ぼろい、小さな家なので、最初の人はみんな迷うんだよ」「立派なおうちじゃないですか」。謙遜ではありません。漆喰の壁に銅板の屋根。狭いながらも庭も手入れが行き届いています。「さあ、はいった、はいった」。ふと、視線を感じました。小屋でうずくまっていた犬がいつのまにか姿をみせているのです。尻尾を振って、家主に愛嬌を振りまくでもなく、黒く深い目をこちらに向けています。「犬を飼っていたんですか」というと、「メグちゃんのところは猫だったよね」「ええ、ヘンな猫ですけれど」。いまごろ、恵さんがいないのでふてくされているのではないだろうか。「散歩のときのいい相棒だよ」。柴犬で名前は「太助」という。「けっこう頭がよくて。やみくもにきゃんきゃん吠えないところもいいね」。聞け、小太郎。そういうわけだ。

(次週に続く)

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第三十二話 「玄人はだしの手料理に舌鼓」   

奥さんは体調を崩して入退院を繰り返している、とヨシロウさんから聞いています。奥さんが自宅にいるのか、いないのか。恵さんはそれを聞き忘れていたことを悔やみました。てっきり、いないと決め込んでいたので、途中、デパートの地下に立ち寄って惣菜を買い込んできたのです。奥がリビングになっているらしく、煮物の匂いがほんのりと漂ってきます。「奥さん、いるんですか」「いや、いないよ。どうして」。ヨシロウさんが怪訝そうな顔をするので恵さんは「料理をしているみたいなので」といいました。「してるよ。俺が作っているんだ」。えっ、ヨシロウさんて料理をやるの。そんなふうには見えないけれど。「けっこう、好きなんだ。料理は」。知らなかった。そういうことは先にいって貰いたい。

恵さんは成り行きで酒になると読んで、その肴にイカの塩辛、やきとり、じゃこ天、ポテトサラダ、焼きビーフンを買い込んできました。ヨシロウさんが「手ぶらでこい」といったことが分かります。「いま、筑前煮を炊いているの。さあ、あがって、あがって。遠慮はいらないから」。リビングをみて驚きました。テーブルのうえにヨシロウさんの手造り料理が並べられていたのです。シメサバ、さんまの味噌たたき、マグロの赤身の刺身、らっきょ、しょうがと青じそがたっぷりのっているざる豆腐、漬物としてなす・きゅうり・大根の盛り合わせ。そこに、ガステーブルの上で鍋から湯気が立ち上っている筑前煮が加わります。「このシメサバも手造りだよ。活きのいい鯖を一本買ってきて、カボスで〆たものだ」。スーパーなどで市販されているものは酢で真っ白になっているけど、目の前にあるものは肉厚の身にうっすらと赤いところが残っていて絶妙。らっきょも手造りだそうです。「なんだか小料理屋にでも迷い込んだみたい」「はははは。第二の人生は料理屋をやるか」。まんざらでもなさそうです。恵さんは買い込んできた惣菜を出すのを忘れてしまい、それでも冷蔵庫に保管していたほうがいいものばかりだったので、「これ、買ってきたものだけれど」とおずおずと差し出すと、ヨシロウさんは中身を確認して「だから、手ぶらでこいといっただろうに」と笑いながらいいます。「いいですよ。帰りに持って帰りますから」というと、ヨシロウさんは「もちろん、いただいて置くよ。貰ったものを返すなんで失礼だからね」と素早く冷蔵庫に収納しました。

料理はどれも玄人はだし。筑前煮も得意料理のひとつというだけあって、薄味でだしの染み込み加減が見事でした。料理を盛り立てる器にしても、大皿や小皿がハーモニーを奏で、色合いが美しい。「ホント、人は見掛けによりませんよね」。日本酒の酔いがほんのりと回ってきて、口も軽やかになっていました。「料理は学生のときから作っていたのでキャリアは長いよ」。知らないことばかりです。「ああ、そうそう」とヨシロウさんは思い出したようにいいます。「もうすぐ新蕎麦がでるよね。女房は俺の打つ蕎麦が好きでね。今度、退院するころには食べさてあげられると思う」。ぜひ、そのときは一声掛けてほしいと、恵さんはおねだりをしました。ヨシロウさんは引出しをたくさんもっています。退職後も、マイペースでやっていくのでしょう。今度、逢うときはどんな顔をみせてくれるのか。

(次週に続く)

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第三十三話 「カズヤ君が会社を辞めたらしい」  

転機を迎えたもう一人にカズヤ君がいました。会社を辞めてしまったみたいなんです。今年4月の入社だからわずか半年しか勤めていません。どうして、なんで?というのが率直な感想。就職難のこのご時世にせっかく大手家電メーカーに潜り込めたのに見切るのが早すぎやしないか。いまのワカモノはという言い方はしたくないけれど、もう少し踏ん張ってもよかったのではないか。会社なんて楽しいことより、辛いことのほうが多い。嫌な仕事もある。根が真面目なタイプであればあるだけ、理想と現実のギャップに悩む。だけど、そうした矛盾を抱えながら粛々と仕事をこなしていくうちに、追い風が吹いてくる。そうして仕事の面白さを見出していく。それが実績を積むことに繋がる。

と、分かったようなことをいいましたが、こうしたことが数多の経営本の中で触れられています。それにしても、カズヤ君、どうしちゃったんだろう。

じつは、恵さんも転職組です。学校を出て最初に入社したのは旅行会社でした。当時、学生の人気企業ランキングではベスト10にはいっていたので、ダメモトで応募してみたら、あれよ、あれよという間に最終面接にまで進んでいて、めでたく採用になりました。あのときは天にも昇るような心地がして、嬉しかったですね。配属されたのは支店の営業所。カウンター業務で朝から夕方まで笑顔を振りまいてお客さんにチケットを販売する仕事です。希望は本社で旅行プランを立てる業務だったのですが、新入社員は誰もが経験することなので仕方ありません。支店とはいえ100人を超える社員がいました。それだけに、派閥があって半年もしないうちに人間関係の複雑さを実感するようになり、ほとほと疲れてしまいました。それでも5年間、勤めましたね。

仕事ですか?ずっとカウンター業務です。退職を決意したのは体調を崩したことでした。朝、会社に行くと思うと身体が震えて止らなくなったんです。20代の後半に差し掛かるころでした。辞表を提出したときの直属の上司の嬉しそうな顔をいまでも覚えていますよ。

現在の会社は新聞の求人欄をみて応募しました。以来、勤務先が変わることなく現在までいまの職場で働いています。といって、自分に適した会社なのか、いまの仕事に生きがいを見出せるかといわれたら返答に詰まってしましますが、辞めたいと思ったことはありません。ストレスもあまり感じないし、仕事は面白いという領域には達していませんが、そこそこの充足感はあります。ですから、ほどほどに適合していているんでしょうね。このままでいいのだろうか、流されているなという自覚はありますけれど、もう、なるようにしかなりません。

恵さんは地下鉄のホームで偶然、カズヤ君に会ったときのことに思いを巡らしました。生彩がないというか、フミさんのところで自転車に触れているときの輝いているカズヤ君とは別人のようにみえたのです。あれからカズヤ君には会っていません。携帯やメールもこないので気にはなっていたのですが・・・。仕事を覚えることに忙しいのだろと恵さんは連絡することを控えていました。

(次週に続く)

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第三十四話 「自転車屋さんで退職祝い」   

「あのさ、こない」。携帯に自転車屋さんのフミさんからです。また、飲み会の誘いだろうか。車輪やパーツを囲まれて、自転車談義をするのもいいけれど、この季節は快適なので自転車で遠出を楽しみたい。パーツをばらばらにして移動用バッグにいれて電車に乗る。二時間ほど行ったところに山間のサイクリングロードがあります。そこを走ろうと計画していました。会社勤めをしていると休日のプライベイト・タイムはとても貴重なんです。

「忙しくて、時間が取れそうもないんだよね」。こんなセリフは見え透いているけど、一応、断りの文言を口にしてみましたが、一笑に付されました。「なに、バカなこといってるの。忙しいということがメグちゃんほど似合わない人はいないよ。あはは」。いちいち反論してみても無駄なことは分かっているけれど、それでも言うときのはきちんと伝えておかないと、フミさんのペースに巻き込まれてしまう。「いま、ちょっとだけ仕事が立て込んでいてさ」と念を押す。「ふーん、そうなの。それじゃ仕方ないな」。フミさんが手の平を返したような淡泊な言い方をしてきました。「ま、無理にとはいわないけどさ。カズヤのことでちょっとな」。恵さんは彼のことがずっと気になっていました。「聞いてる?」「なんのこと」「会社、辞めたってことさ」「ええ、そうなの。ほんとに」。

カズヤ君のことはサトミさんからの連絡で知りました。彼女はフミさんのところに頻繁に顔を出し、カズヤ君とも親しい。恵さんは心に引っ掛かっていることがありました。なぜ、彼女にだけ連絡をいれて、自分にはなしのつぶてなのかと。彼のことを理解していたつもりなのに、なんだかノケモノにされたような疎外感があって気持ちがざわめいていたのです。カズヤ君に会ったら、水臭いじゃないかといってやりたいのですが、かといって、それを口に出すようなことはしません。これも、大人社会を円滑にやっていくうえでの処世術のひとつなんでしょうね。「いつ、辞めたの」。あくまでも知らないふりをしました。「なんだか最近みたいだな」。フミさんにとっては会社を辞める、辞めないはさほど関心がありません。勤め人にとって退職することは一大事なのに、彼にとってはそれほど重要なことではないのです。

「でさ、カズヤの退職祝いをやろうかなと思っているのよ」「そうなんだ」。時間が取れないといった手前、さすがに「だったら、行きますよ」と態度を豹変するのは見苦しかったけれど、「なんとか都合して調整します」といってしまいました。フミさんは人の心を読むセンサーが敏感です。くすくすと忍び笑いをして「カズヤと聞いた途端にこれだからな」といってきたので、恵さんは恥ずかしかった。「でさ、今週の土曜日なんだけど、無理しなくてもいいよ」「相変わらず、性格悪いよね」。恵さんはしらっとして言いました。「カズヤ君、元気にしてるのかな」「え、心配してんの」「ちょっとだけ」「ふーん、そうなんだ。メグちゃんてけっこう優しいところがあるからな」。面識のある人間が転機を迎えたら、関心を寄せるのは当然でしょう。「心配いらないよ。元気、元気。若いっていいね」。フミさんはそういって通話を切りました。

(次週に続く)

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第三十五話  「会社 を辞めたワケ」   

フミさんとの携帯でやり取りをしたあと、恵さんの気持ちが落ち着きません。猫の小太郎が足元でじゃれついてきても遊んでやれない。部屋の中でウロウロしながら挙動不審な振る舞いをみせています。カズヤ君の携帯に連絡をいれるかどうか。恵さんは迷っていました。聞きたいことが次から次に浮かんできます。

はやる思いには勝てません。携帯に連絡をいれることにしました。「どう、元気にしてる」。当たり障りのない話題をだして様子を窺います。「元気ですよ。そろそろメグさんから連絡があるんじゃないかと」。けっこう気にしてくれているのである。「もう聞いていると思いますが、会社を辞めちゃいました」。ちょっとおどけた言い方をしてきました。「うん、知ってるよ」「フミさんから聞いたんですか」といってきなので「サトミさんから連絡があって知ったよ。そのあと、フミさんからも聞いた」。恵さんがこう言うと、カズヤ君はほっとしたように溜息が受話器を通じて伝わってきました。なぜ、退職しなのか。恵さんはそれを聞きたかった。「会えない」。誘いを掛けると「いいですよ。時間はあるのでいつでも」といってきたので、間髪入れずに「明日なんてどう?」。恵さんも押しが強い。

午後7時。待ち合わせ場所はターミナル駅の近くにある喫茶店です。すでに、カズヤ君は到着していて窓際のテーブルで本を拡げていました。Gパンにスニーカー、白地のシャツに紺のジャケットを羽織っています。なかなかセンスがいい。恵さんが声を掛けると、単行本から目を離して「久しぶりです」といって椅子から立ち上がろうとしました。「ほんとだね。地下鉄のホームで偶然、会って以来だよね」。恵さんが努めて自然にいいます。「あ、そうでしたっけ」。

喫茶店は帰宅途中の勤め人などで込みあっています。声をやや大きくしないと聞き取りにくい。「また、どうして会社を辞めたの」。恵さんがこういうと隣のテーブルにいたカップルが好奇の目を向けてきました。「ごめん。もう、少し小さな声で話すから」というと、カズヤ君は「いいっすよ。そんなこと」と手をひらひらさせてきます。「せっかく大企業のいいところに入ったのに、もったいないな」「まあ、いろいろと自分なりに思うところがあって」。カズヤ君の性格から、いっときの感情に振り回されて退職したのではないことは分かるけれど、「それにしても、もう少し辛抱してもよかったんじゃないの」というと、彼はくすっと笑いました。「会社の先輩にもそういわれました。辞めるのはいつでもできるからって」。顔に意志の強さが浮かんでいます。「誤解してもらっては困るけれど、人間関係や仕事上のことで辞めたわけではありません。自分でいうのもヘンだけれど上司にも恵まれ、同僚たちともうまくやってました。仕事もそれなりに面白かったし、やりがいもありました」。それなのに、なぜ―。「どういったらいいのかな。自分に正直になりたかったんです」。なにを青臭いことをいっているんだろう。もちろん、そんなことはおくびにもだしません。恵さんは話の風向きを変えました。「会社を辞めたこと、両親は知っているの」「ええ、事後承諾ですけれど」「なにか言ってた」「別に、なんとも。オヤジはまだ若いんだから好きなようにしたらいいと励ましてくれましたよ。オフクロはちょっと未練がましくいってきましたけどね」。恵さんは最初の会社を退職したときのことに思いを寄せていました。

(次週に続く)

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第三十六話  「自転車屋さんの支店開設でカズヤ君が・・・」   

その日、自転車屋の作業場にひとり、ふたりとやってきました。バリバリのOLサトミさん、東京本社に戻ってきたユウジさん、フミさんの幼友達で税理士夫人のタケコさん。この3人は馴染の顔ですが、あとの人たちは面識がありません。そのなかに、顎に髭をたくわえた「ムーミン」さんがいました。板金、溶接などの金属加工会社を営んでいる職人で、フミさんのところの自転車のパーツはこの人の手によって作られています。話には聞いていましたが、恵さんは初対面。ムーミンというネーミングはフミさんが命名したものです。童顔で丸い顔にぽこんと張り出したお腹は、ムーミンというより性格の穏やかそうなタヌキのイメージです。シンプルで独特なパーツの生みの親ですが、どこにそのセンスが隠されているんでしょう。この人がいなかったら、フミさんのところの自転車はないわけで、なくてはならない存在です。

すでに、作業場は訪問者たちですし詰め状態です。折り畳み式のローテーブルの周りには、各自、自分の居場所をみつけて座っていました。フミさんと肩を寄せて笑顔を振りまいているムーミンさんは、飲んでもいないのに酔ったような顔をしています。目の前に仕出弁当とグラスが置かれ、タケコさんが冷蔵庫から取り出した飲料水などをいそいそと抱えてテーブルに並べると、持参した自家製おでんのはいった大なべをガスコンロに掛けました。まさに「お母さん」といった感じです。

ユウジさんが恵さんに「きょう、なんの集まりなの」と訊ねてきました。「えっ、聞いてないの」「飲み会だっていうのは知ってるよ」。サトミさんが「カズヤ君の退職祝いじゃないの」というと「入社半年足らずで辞めたのに、退職祝いっていうのもへんだろう」。ユウジさんがにこにこしながらこういいました。たしかに、一理ある。「カズヤ君、遅いな」。サトミさんが腕時計に目をやっていると、噂をすればなんとやらで、彼がやってきました。

メンバーの数の多さに面喰っているカズヤ君に、「お前は今日、主役だからな。こっち、ここ。俺とムーミンのあいだ」と手で合図をしました。カズヤ君が窮屈そうに指定席に収まると、どこからとなく「挨拶」という声があがりました。「あらたまって退職挨拶もないだろうが・・・」。ユウジさんがまぜっかえしていると、フミさんが「きょうの宴はカズヤの就職祝いも兼ねています」といってきました。「これから彼がうちで働くことになりました」。次の仕事がみつかるまでアルバイトでもするのでしょう。そう解釈したので驚いた表情をみせる人は誰もいません。彼は学生のときからフミさんのところに顔をみせては作業を手伝っているのでニュースではないのです。ところが、次の一言には驚かせられました。「今度、うちで支店を開設します。彼にその支店を任せることにしました」。ウソ・・・、フミさんのところって、支店を設置するほど繁盛していたかな。それぞれの顔に思惑が交錯します。カズヤ君がすっと立ち上がりました。「ホンネをいえば学生のときから自転車屋さんで働きたかった。自転車の素晴らしさに触れられるだけに、こんな嬉しいことはありません」。支店の場所はフミさんのところからそう遠くはない。「自転車を買え替えるときはぜひ、支店のほうでお願いします。本店の持論を押し付けてくるうるさ型の主と違って支店の責任者はもの静かで、お客さんの側に立ちます」。笑いが洩れる中、カズヤ君の顔がさわやかでした。

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37話 38話 

第三十七話 「師走のサイクリングロードを走る」  

電車を乗り継いて二時間ほどいったところにあるサイクリングロードは近郊の自転車愛好者たちで賑わっています。河川敷の全長およそ二十キロ。恵さんは久しぶりにこの道を走ろうとやってきました。最寄りの駅前でパーツをいれた収納バックを開けて自転車を組み立て、いざ出陣。同輩たちが何人もいて、互いによろしくと目で挨拶を交わすと、さっそうと飛び出していきます。自転車はロードバイクやクロスバイクが多く、恵さんが乗っているママチャリでもなく、かといって、クロスバイクでもないどっちつかずのファジーな自転車はあまり見掛けません。父親と一緒にやってきた子供も体型に見合った高速自転車です。

紅葉が過ぎ、師走の足音が聞こえるこの時期、恵さんは嫌いではありません。顔に当たる風が凛としていて、ペダルを漕いでいるうちに寒さも忘れて体がぽかぽかと暖まってくる。あちらこちらで群生しているススキの冬支度を楽しみながら走るのもまた魅力があります。少し前まで係留してあったモーターボートや、カヌーは見掛けません。釣り用の小船が忘れられたかのように川面に浮いています。

ロードにはいると、後ろから自転車がびゅんびゅん追い越していきました。お先にと、手をあげて声を掛けられると、ちょっと嬉しい。恵さんはちんたら走っていく。別に急ぐことはないので、気が向いたら自転車を停め、河川敷に腰をおろして対岸に並んでいる高層マンションを眺めたり、遠くで橋のうえを音もなく通り過ぎる電車にぼんやりと目を向けています。目線の先に合羽を着こんで投げ釣りをしている人がいました。この時期、なにが釣れるのでしょう。じっとしていると乾いた空気が肌に食い込んできます。足元に黄色いゴルフボールが転がっていました。

さて、もう少しいってみよう。サイクリングロードはどこからでも乗り入れることができ、また、自由に抜けられる。このへんも気に入っています。もうひとつの楽しみは少し先にある河川敷の茶店に立ち寄ることでした。ここの名物はおでん。これがめっぽううまい。冷えた体にあつあつの濃い目のおでんを口にするだけで幸せな気分になります。茶店を仕切っているのはみんなから「おばちゃん」と呼ばれている女性で、年のころは70過ぎ。てきぱきとした振る舞いはみていても気持ちがよく、サイクリングロードのもうひとつの顔になっています。恵さんがそこに到着すると、すでに複数の自転車が駐輪してあって、おでんの香ばしい匂いが外に流れていました。店内はテーブル席が4つ。仕切り板の奥でアルミの大鍋からおでんの湯気が立ち上っています。お腹がグーと鳴り、急に空腹を覚えました。

恵さんのお気に入りは大根とはんぺん。小皿に盛られたらそれらをはふはふいいながら食べる。洋辛子がつんと鼻にくるのもいい。ここには炭酸飲料水なども置いてありますが、恵さんはあったかいお茶にしました。おでんのほかにもうひとつ、焼きそばも人気があります。キャベツともやしに、青のり、紅ショウガを添えた昔風の素朴なソース味ですが、これもなかなかのもの。ほとんどの人がおでんと焼きそばをセットで食べています。おばちゃんのにこにこした顔が食欲を後押ししてくれるのでしょう。おでんの汁をすすっていると、声を掛けられました。「ひさしぶりじゃない」。覚えていてくれたんだ。「ええ、この季節にロードを走るのが好きなもので」というと、「自転車好きはみんなそういうわね」。おばちゃんは笑うと鼻に皺が寄ります。「あなたの自転車もいい味をだしてきたわよ。丁寧に、優しく乗っているのがわかりますよ」。思わず、ピンと背筋を伸ばしてしまいました。「ありがとうございます」。

(次週に続く)

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第三十八話 「自転車での遠出は春先までお預け」   

河川敷のサイクリングロードで楽しんだ帰り、恵さんは自宅の最寄り駅のひとつ手間の駅で降りました。銭湯にはいるためです。いまでは銭湯を探すのが一苦労。時代の流れとはいえ、減少の一途を辿り、銭湯巡りが趣味である恵さんにとっては悲しい現実です。いつまでも存続してほしいと願ってやみません。広々とした浴槽に浸かる充足感を多くの人たちに体感してもらいたい。

恵さんは自転車を銭湯の空き地に止め、シャンプー、石鹸、タオルのはいった銭湯七つ道具の手提げを抱え、暖簾をだして間もない下足に靴をいれました。番台を通り過ぎようとしたところ、「おや、いらっしゃい。元気にしてた」と店主が気さくに声を掛けてきました。「まあ、ほどほどに」。恵さんがそういうと「そりゃ、なによりだね」と顔を綻ばせます。その声がやたら響く。脱衣室には恵さんのほかにもうひとりいるだけです。服を脱いでいるとき、店主が正面に据えてあるテレビ画面から目を逸らして「どっかの帰り」というので「サイクリングロードでひと走りしてきた」と答えると、思い出したように「あっ、そう、そう。自転車が趣味だったんだよね」といってきました。「この季節、寒くなってきたので自転車を乗り回していれば体も冷えてくるからね。湯に浸かって疲れをとるのが一番」。こういって、店主はまた目線をテレビのほうに向けます。人気番組『笑点』をやっていました。

体重計に乗ると00キロ。サイクリングロードで軽く汗を流してきた割に体重はちっとも減っていません。最近、胴回りが気になってきます。食べ物のせいなのか、それとも年齢からきているものなのか。メタボ症候群になる前になんとか食い止めないと。体重を測るたびにそう思っているのですが・・・。浴室には数えるほどしかいません。それも年輩ばかり。恵さんの幼い頃は、それこそ子供たちで賑わい、はしゃぎすぎで大人からたしなめられたものです。それが、いまや、浴室の客は疎らで静まり返り、風呂桶をひっくり返す音が妙に大きく聞こえてきます。掛け湯をしてから浴槽にざぶんと浸かる。少し熱めですが、体が慣れてくると、それがなんとも心地いい。はあっと、溜息をついてしまいます。極楽、ごくらくとはよくいったものですね。

ペダルを漕ぎ過ぎたのか、足の腿のところに鈍い痛みが横たわっていました。手のひらでそこのところを揉んでいく。湯が鈍痛を和らげてくれます。足の先から頭頂まで温かさがまんべんなく伝わると、額に玉のような汗が噴き出してきて、それをほってた手で何度もぬぐいました。リラックスしているせいか、今年の出来事が押し寄せる波のように打ちつけては引いていく。仕事で顔から火が噴きだすような基本的なミスをやらかしたこともあれば、逆に、思いもよらない成果を生んだこともありました。そして、なによりもの収穫は人との出会いです。あんな顔、こんな顔が浮かんできて、浴槽のなかでほころんでしまいました。人はひとりでは生きられません。多くの人たちに支えられて生活しているのです。

浴室を出て脱衣室に戻ると、店主が「来年はいいことあるといいね」と呟きました。一年後の今頃はなにをしているのだろう。そんなことを考えていると、傍から、なるようにしかならないじゃないかと身もふたもない声が聞こえてきて、なんだかおかしくなってきました。

銭湯からぬくもりを貰って、家に戻ると猫の小太郎が飛びついてきました。クンクンと匂いを嗅いでいます。恵さんが銭湯に立ち寄ってきたことを感じているようです。自転車を駐輪場所の定位置に停め、恵さんは「お疲れさん。楽しい思い出をありがとう」といっていたわるようにシートを被せました。日を改めてぴっかぴかに磨いてあげたい。自転車での遠出は来春までお預けです。

(来春に続く)

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